恒屋城  No28201−01 (つねやじょう)       

後城西側の横堀 後城主郭より南西方の眺望

城郭の概要                  
別  名 : 高岡城、中嶋城、
所在地 : 姫路市香寺町恒屋
築城年 : 室町時代
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、空堀、堀切、竪堀、土橋、
訪城日 : 平成25年3月22日

歴   史
恒屋城の築城時期は不明であるが、室町時代に赤松氏被官の恒屋氏によって築かれたとされる。
嘉吉元年(1441)赤松満祐が将軍足利義教を殺害し、播磨に山名氏を中心とした討伐軍が攻め寄せた「嘉吉の乱」で、恒屋伊賀守光氏(光氏の没年から父光稿又は光稿の父の間違いかとされる。)が満祐の呼びかけに応じ書写坂本城に馳せ参じている。
恒屋氏家系によると、恒屋伊賀守光氏は大坪対馬守義勝の次男で、恒屋光稿の養子であったようである。光氏は天正2年(1574)置塩城に宗家赤松則房を攻めたが、かえって赤松方の白国氏によって討伐されたと伝わる。
しかし、光氏は恒屋城主として残ったらしく、後に長水城主・宇野下総守政頼の五男・正友が光氏の養子となって恒屋氏の家督を継いでいる。
天正8年(1580)4月正友は、播磨平定の羽柴秀吉に抵抗した実父宇野政頼に従い、長水城に籠城したと云われる。同年5月9日蜂須賀小六・黒田官兵衛・木戸平太夫等一万余の軍勢に攻められ長水城は落城したが、正友は許されて秀吉から恒屋に三十石を与えられている。その後、正友は黒田孝高(官兵衛)・長政に仕え、慶長5年(1600)黒田家の移封に従って筑前に移り、慶長7年(1602)12月には七百石の知行を得ている。恒屋城は、筑前に移ったこの頃に廃城になったと考えられている。

構造と感想
恒屋城は、町立休養センター香寺荘(居館跡)の東方、丘陵から南西に鞍部を隔て張出した独立状の丘陵上に築かれている。立木は切り払われ、下草も綺麗に刈り取られてあり、遺構や縄張りを容易に確認でき、訪れて気持ちよい城跡である。
城跡は、北端の標高236mの後城と南先端の標高198mの前城からなっている。北端の頂部に主郭を置き、北を除く三方の下方に向け10段程の削平地を階段状に設け、さらに二重堀切を入れ、土塁囲いの水の手と城内最大の南郭(南北約70m、東西約25〜40m)を連旦させ、南郭の南端は大堀切で遮断している。大堀切から西へ南郭の南裾を約60mの空堀と土塁が北方に延び、北端は土橋となり、さらに西方に短い横堀が続き、その先は畝状竪堀群が設けられている。
大堀切から前城までの間は、自然地形を残しているが中央に長土塁が縦断し、前城頂部の北側切岸に達している。前城は、頂部から南方に三段の削平地が続き、南端は断崖で落ち、南から西側の裾には30m程の空堀が走り、その西端から畝状竪堀群が前城西側を覆い尽くしている。また、南裾に不動堂が祀られ撹乱を受けていいるが、こちらにも畝状竪堀の痕跡が認められる。
この城は、西側の斜面が緩やかなことから、横堀と畝状竪堀群で重点的な防御を施している。

道 案 内
中国自動車道福崎インターの福崎北ランプを下りて左折し県道23号線に入る。県道23号を西に6.1km程行った久畑交差点でやや鋭角に左折し国道409号に入る。国道409号を南に2.2km程行くと右手に北恒屋公民館があり、そこの十字路を左折し、40m程先で左折する。50m程先に恒屋城の看板があり(最初のT字路)ここを右折する。民家の脇を進むと山に入る手前に説明板があり、登城口である。民家の西側に城跡用の簡易駐車場がある。

城跡    登り口  TOPへ 戻る

 
後城の主郭       前城の畝状竪堀
 
後城を南より仰ぐ      前城の南端切岸
 
後城の南端大堀切       後城の虎口