No25523−02 朽木城(陣屋) (くつきじょう)       

井戸と石積み 現地の古図

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 朽木村野尻
築城年 :
形  式 : 館城、陣屋、
遺  構 : 堀、土塁、井戸、石垣、
訪城日 : 平成24年12月23日

歴   史
朽木城は、近江源氏佐々木氏の庶流である朽木氏の居館で、江戸時代初期には朽木元綱によって拡張、整備が行われ、交代寄合旗本朽木氏の陣屋となった。明治になり全ての建物が取壊され、土地も改変が進み、現在では大半の遺構が失われてしまっている。
朽木氏は、承久3年(1221)の「承久の乱」の戦功により近江守護職となった佐々木信綱が朽木庄の地頭職を兼務、信綱より三代後の義綱が朽木庄を領して、朽木氏を称したことにはじまる。以後、子孫が家督を相続して明治維新に至っている。
朽木氏の居城の所在地や創建年代については、諸説あるようではっきりしていない。
鎌倉時代の入部時から明治維新まで一貫して大字野尻の現在地にあったとする説、
元弘2年(1332)義綱の子・時経によって大字野尻に築かれ、それ以前は不明とする説、
大字村井の村井城(所在不明)→大字岩瀬の岩神館→大字野尻の朽木城と移ったとする説、
などがある。

構造と感想
この朽木城(朽木陣屋)は、南方を安曇川本流が西方を支流の北川が天然の堀をなし、緩斜面を削平して築城され、北方背後の山上に西山城を東方に野尻坂砦を構え守りを固めていた。また、西方に若狭や越前と京都を結ぶ若狭街道が通り、軍事上や経済的に要衝の地であった。
昭和56、7年の発掘調査で江戸時代の建物等の遺構下から室町時代の遺物包含層が検出され、中世に館が設けられ、江戸時代に陣屋へと変遷し、長く朽木谷の中心であったと推定されている。
朽木陣屋は、南辺310m、北辺200m、東辺115m、西辺125mの台形を呈し、周囲を堀(南側と東側南半分は水堀、他は空堀)、土塁(西側と北側西半分は二重構造)および石垣(南側)で囲繞されていた。南辺の西から三分の一辺りに通用門、三分の二辺りに大門を設け、登城路は西から坂道が門前に登って来ていた。陣屋内には御殿、侍所、剣術道場、鉄砲場、馬場、牢の他に多数の侍部屋、米倉などが軒をつらねていたが、今は朽木郷土資料館横の史跡公園および森林組合敷地に一部の石垣や土塁、堀、井戸が、また県道沿いに濠跡の池が残るのみである。
なお、城外北西部の北川沿いの家中屋敷には、城代家老本庄氏の屋敷があったようである。

道 案 内
 濠跡
大津方面から国道161号の高島バイパスを来ると、安曇川を渡ったランプで下り、二つ目の信号交差点である北畑で左折して県道38号線に入る。西方向に道なりに1.5km程行くと安井川交差点に至り、その交差点を直進して県道293号線に入る。県道293号線を道なりに4.1km程進むと安曇川を渡りT字路に突き当たる。T字路を右折して県道23号線に入り道なりに9.2km程走ると右手に朽木資料館がある。その資料館が城跡である。
                    

TOPへ 戻る