No25523−03 岩神館 (いわがみやかた)       

土塁と堀 庭園

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 朽木村岩瀬
築城年 : 享禄元年(1528)
形  式 : 館城
遺  構 : 庭園、土塁、堀、石垣
訪城日 : 平成25年5月5日

歴   史
興聖寺は、僧道元が近江守護の佐々木信綱に建立を勧めたのが始まりと云われ、朽木氏の菩提である。元は安曇川の対岸にあったが、江戸時代に大火に遭い、朽木氏ゆかりの秀隣寺のあった現在地に移ってきた。
秀隣寺(前身は周林院)は、慶長11年(1606)朽木宣綱が正室(豊臣秀吉の側室松の丸の妹)の菩提を弔うため、岩神館のあった地に建立した寺院である。
それ以前の戦国時代初期のこの地には、すでに下殿や岩神殿と呼ばれた朽木氏分家の屋敷が構えられていたとされる。
享禄元年(1528)第12代将軍足利義晴が弟の足利義維・細川晴元に逐われ、管領細川高国・若狭の武田元光を伴い、朽木稙綱を頼って朽木に落ち延びた時、稙綱が将軍を迎えるために分家岩神殿の屋敷を改築して造営したのが岩神館で、その館内には高国の作庭とされる庭園(旧秀隣寺庭園)も設けられた。将軍義晴は、この岩神館に享禄4年(1531)までの3年間余り滞在し、また、第13代将軍義輝も天文20年(1551)三好長慶との不和により堅田から朽木へと逃れ、その後和睦して京に戻ったが、天文22年(1553)ふたたび三好長慶との戦いに敗れ朽木に落ち延び、永禄元年(1558)3月まで滞在している。

構造と感想
西側土塁の内斜面
庭園は、安曇川が形成した段丘の縁にあり、安曇川の清流、そしてその背後に横たわる蛇谷ヶ峰を借景とする池泉鑑賞式の庭園で、左手の築山に組まれた「鼓の滝」から流れ出た水は池に注いでいる。曲水で造り上げた池泉には石組みの亀島、鶴島を浮かべ、中央付近には見事な自然石の石橋が架かっている。随所に豪快な石組を配し、全国屈指の武家の庭とされている。
館の遺構は、南北約120m、東西約90mの方形館であったようだが、かなり改変されており、西側背後の堀と土塁が約70m、南側の堀と土塁が約30m曲尺状に残り、内部が墓地となっている。その北に興聖寺の本堂が建ち、境内の東面と北面に石垣が築かれている。
土塁の規模はかなりなもので、また、中央東部の庭園は美しく管理され見事なものであり、衰えたりと云え室町将軍の御所として相応しい拵えを堪能できる遺構である。

道 案 内
県道23号線で朽木歴史資料館(朽木陣屋)前を南西方向に260m程通り過ぎ橋を渡ると国道367号の山神橋交差点に出る。左折して国道367号に入り南西方向に1.1km程行ったY字路で右側の旧道に進む。旧道を310m程走りT字路を右折して130m程西に進み急な坂道を上ると興聖寺である。

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