No25523−01 西山城 (にしやまじょう)       

烽火台 主郭の枡形

城郭の概要            
 北腰郭の虎口石垣
別  名 :
所在地 : 朽木村市場、荒川、西山
築城年 : 戦国期
形  式 : 山城(標高361.8m)
遺  構 : 烽火台、土塁、堀切、竪堀、石垣、
訪城日 : 平成24年12月23日  

歴   史
西山城は、西方眼下に若狭街道(通称:鯖街道)を、東方眼下には安曇川上古賀方面に通じる街道を俯瞰でき、街道監視の役目を担うとともに、朽木氏の居城・朽木城の背後を固める詰城として機能していたとされるが、詳細については不明である。
後鳥羽上皇が承久3年(1221)鎌倉倒幕の兵をあげた「承久の変」で近江守護・佐々木広綱は宮方につき敗れ一族は処刑され、近江守護職は弟の信綱に与えられた。その信綱の死没に伴う相続では、幕府の介入を受け4人の子供に領地が分け与えられ、「大原」「高島」「六角」「京極」の四家に分流し、三男の六角泰綱が守護を継ぎ、残りの三家は幕府に直属する「在京人」になり、守護を包囲する体制がとられた。
その際、次男・高信は高島郡田中郷の地頭職を得て高島氏の祖となり、その一族が惣領家の高島(越中)氏をはじめ平井、朽木、永田、横山、田中、能登の家々に分かれ、鎌倉時代から戦国時代末にかけて高島郡中南部に勢力を張り、一族は高島七頭と呼ばれた。室町幕府においても「奉公衆-外様衆」として幕府に直属した有力氏族であった。
朽木氏は、高島氏の祖・高信の次男・頼綱を祖とし、頼綱の三男・義綱が朽木庄を領して、朽木氏を称したことに始まるとされる。義綱の孫・義氏は足利高氏が後醍醐天皇の建武新政に叛くとこれに従い各地で戦功を挙げ、将軍に近侍する奉公衆(外様衆)として仕えた。その後の応仁の乱(1465〜75)や長享元年(1487)の将軍義尚による六角征伐で朽木氏は幕府軍に加わっており、朽木氏は近江守護から自立した存在であったことが窺える。
しかし、応仁の乱以降の幕府権力の衰退に乗じて六角氏は寺社本所を領有化し戦国大名として力をつけ、将軍家とも結びつき、朽木氏は六角氏に協力せざるを得ない立場に立たされ、大永5年(1525)六角定頼の浅井氏攻めでは朽木稙綱は先陣を務めている。
一方、永正5年(1508)第11代将軍義澄が、享禄元年(1528)第12代将軍義晴が、天文20年(1551)と22年第13代将軍義藤(改め義輝)が、京都の兵乱を避け朽木氏を頼り朽木谷に身を寄せ、材秀、稙綱父子は六角氏の支援も得て岩神館や庭園を造営するなど将軍を手厚く庇護し、稙綱の庶子も側近として仕えさせている。
六角氏では、永禄3年(1560)浅井氏との野良田合戦に大敗、同6年(1563)重臣の後藤父子誅殺に端を発する観音寺騒動で家臣の離反を招き、勢力を著しく減退させると、浅井氏が台頭し湖西へも進出するようになる。永禄11年(1568)織田信長の近江侵攻で六角氏は没落し、朽木元綱は浅井氏と起請文を取り交わし同盟を結ぶことになった。
しかし、元亀元年(1570)信長が朝倉氏攻めに敦賀へ侵攻すると、妹婿の浅井長政が離反し挟撃の危機に瀕し、退く信長を朽木元綱が道案内して朽木谷を通って京へと落ち延びさせた。これにより元綱は信長に属し、後に豊臣秀吉に従い、また関ヶ原の戦いでは東軍に内応して徳川家康から本領を安堵され、その子孫は旗本として、また元綱の三男・稙綱の子孫は福知山3万2千石の大名となり明治維新まで存続している。

構造と感想 (現地の縄張図)
この西山城は、江戸時代の地誌類にも記載のない城で、西山のことを地元では「ホウダイ」と呼んでいたことから、昭和54年12月地元朽木中学校の郷土史研究クラブが、現地踏査して発見したとのことである。
朽木城(朽木陣屋)跡の裏門から180mほど北に行ったところから洞照山の尾根筋を北北東に50分弱登ると愛宕神社に到達する。愛宕神社の東側50m上方の西山山頂に築かれているのが西山城である。遺構の遺存状況は非常に良好で、灌木や下草もなく、注目されている遺構も大変見やすくお薦めの城跡である。
縄張りは、頂部に主郭を置き、その南北に一段下がって腰郭を配した二段築成で、尾根続きの南北端は堀切で遮断し、城域を区切った小規模な山城である。
主郭は東西17m、南北40mの砲弾型で、周囲には土塁が巡り、その北端部には高さ3mもある大土塁が馬蹄形に築かれており、「烽火台」と考えられている。虎口は、西側に二ヶ所設けられ、南西の虎口は土塁と切岸に囲まれ南北15m、東西6mの内枡形を伴っている。また、中井均教授が北腰郭東側の虎口とされる土塁の切れ目には、石積みが積まれている。なお、現地には溜桝の標示板が掲げられているが、果たしてどちらであろうか。
ところで、現在残る西山城の遺構は、枡形虎口や石積み等から戦国時代後半に築城または改修されたと考えられている。

道 案 内 主郭の南方向
大津方面から国道161号の高島バイパスを来ると、安曇川を渡ったランプで下り、二つ目の信号交差点である北畑で左折して県道38号線に入る。西方向に道なりに1.5km程行くと安井川交差点に至り、その交差点を直進して県道293号線に入る。県道293号線を道なりに4.1km程進むと安曇川を渡りT字路に突き当たる。T字路を右折して県道23号線に入り道なりに9.2km程走り、朽木資料館前を通り過ぎて右手の山上神社手前の道に右折する。100m程先のY字路を左手に進み右に大きくカーブして70m程先のY字路を右手に進む。その20m程先のY字路を左手に進み70m程行ってやや左方向に曲がり、100m程行った突き当たりの山麓に小さな「西山城1.4km」の標識がある。そこから登る。

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