No25503-1 玄蕃尾城 (げんばおじょう)       

主郭虎口 主郭切岸・横堀

城郭の概要
別  名 : 内中尾山城
所在地 : 伊香郡余呉町柳ケ瀬、福井県敦賀市刀根
築城年 : 天正10年(1582)
形  式 : 山城(標高486.2m)  
遺  構 : 横堀、堀切、竪堀、土塁、天守台、櫓台、馬出
訪城日 : 平成22年4月18日

歴   史
玄蕃尾城は、内中尾山城とも呼ばれ、柴田勝家重臣の佐久間玄蕃允盛政に因むとも云われるがはっきりしない。
天正10年(1582)6月2日本能寺の変で織田信長と長男・信忠が斃れ、後継者をめぐり同27日清洲会議が開かれ、柴田勝家は長浜城を中心とした近江北部を所領とした。この時、本城の越前・北の庄城と長浜城を結ぶ中間点、越前・近江国境に位置する柳ヶ瀬山(内中尾山)山上に築いた城砦が玄蕃尾城である。
領国間の兵站線を担うとともに、南北の峠道(久々坂峠、椿坂峠)の監視・遮断を担ったと考えられている。
天正11年(1583)柴田勝家と羽柴秀吉は、織田信長の後継をめぐる対立から賤ヶ岳付近で激突する。合戦に先立って勝家は玄蕃尾城を本陣とし秀吉軍と対峙。のち佐久間盛政の大岩山砦への中入り攻撃を支援するため山麓の狐塚に本陣を移すが、丹羽長秀の参戦によって勝家本陣と盛政隊の連絡が断たれ、盛政隊への秀吉の追撃を見た前田利家、不破勝光、金森長近等の戦線離脱もあって、勝家は合戦に敗れ北ノ庄城へと敗走した。以後、玄蕃尾城は廃絶したと考えられている。
玄蕃尾城は限定された時期の城郭で、築城者もはっきりしており、築城目的も明確である。柴田軍の陣城中、最も縄張りが優れ、遺構の保存状態も良好で、城郭研究史上、極めて重要な存在であるとして、国史跡に指定されている。

構造と感想
 現地の縄張図より
方形の主郭を中心とし、その南北に郭が並び、各郭を一本の道が貫通する形になっている。しかし、その道は複雑に折り曲げられ、枡形虎口・食い違い虎口・横堀・土橋・馬出・横矢掛かりなどの施設が設けられ、通路に対し守備側の防御や反撃がしやすい縄張りが造り出されている。今も巨大で鋭い造りの各施設が見事に残っている。
この城は、勝家軍の他の陣城が単郭なのに対し、複雑な縄張りとなっており著しい差異がある。他の勝家軍の陣城とは異なった戦略的な考え方があって築城されたものであろう。
遺構の残存度は完璧と云える。加えて地元の方々による管理が行き届いており、何時訪れても堀・土塁の形態・規模が余すところなく観察でき大変に嬉しい。このような山城は、本当に少ない。また、車で近くまで行けるのも大変に有り難い。
城からの眺望は、南東方向に北国街道を木之本方面まで一望でき、その先には近江北部の平野が広がっている。
当時は、この辺りの山々は高木がなく笹や灌木に覆われていたようで、玄蕃尾城からは四囲の山々に陣した各城砦や軍勢の様子が手に取るように眺められ、現地に立つと勝家がこの地に城を築いたことが頷ける。
            

道 案 内 
虎口郭
国道8号の木之本IC口交差点から北に国道365号を12km程行き、斜め右の県道140号線に入る。220m先の旧鉄道柳ケ瀬トンネル(今は1車線の道路トンネルになっている。)をくぐり、トンネルを出て15m(本当に直ぐ。)を右折する。右折して直ぐの橋を渡って右折する。あとは林道を1.1km程道なりに登って行くと駐車場に行き当たる。
そこからは右手の山道を徒歩で久々坂峠(刀根越え)へと10分弱登る。峠に玄蕃尾城の説明板ある。そこから左手の山道に入り、尾根筋を登ること10分程で城跡に着く。
なお、トンネルの信号は絶対に守らないと、車一台がやっと通れる幅の狭いトンネルをバックする羽目になり大変である。

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