No25501-3 唐川城 (からかわじょう)       

南からの遠景 二重土塁と横堀

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 伊香郡高月町唐川
築城年 : 永正15年(1518)若しくは天文元年(1532)頃
形  式 : 平城(居舘) 
遺  構 : 土塁、横堀
訪城日 : 平成22年5月3日 北中間の土塁

歴   史
磯野右衛門大夫の居館とされ、養浩庵(同字の寺院)の記録に「磯野右衛門大夫隣村磯野村ノ城ヨリ永正15年(1518)秋九月、唐河村城江移り住ス」とある。また、「淡海小間攫」に「磯野氏は代々相続し磯野に在城せり。京極氏の旗頭也。磯野右衛門大夫員栓息、源三郎為員は精兵武勇其名世に高し。永正年中(1504〜20)磯野山に籠城の時、山本山城の後詰して戦死す。弟源十郎家を継ぎて浅井氏に属す。員詮が弟伊予守員吉は佐和山に在城したり。」とある。そして、子のなかった員吉は一族の宮沢平八郎を養子とし、平八郎の子が磯野丹波守員正(員昌)であると記す。しかし、源三郎為員が戦死したのは、天文元年(1532)8月に上坂治部大輔が磯野右衛門大夫にあてた軍忠状から、天文元年の間違いと思われている。
これらのことから、員栓の隠居した場所あるいは為員が浅井亮政に破れ討死して磯野氏が唐川に蟄居した時の居館のいずれかと考えられている。

構造と感想
集落南東部一帯の東西2町、南北1町半の城館で、現在も南東部に二重土塁が明瞭に残り、かつては東側・北側にも現在の道路・川の部分などに二重土塁と堀があったと云われる。南側は赤川で画され、西側は土塁の有無は不明もドブ田であったと云われる。東側の入口二ヶ所は、かつて道が鍵の手状に屈曲し、東方の湧出新橋でも同様だったと云われる。また、惣構内の西部に存する養浩庵は、もと湧出山の麓にあったものを磯野氏が帰依し移転したと伝わる。また、北部の制札場のある広場付近はバンバと呼ばれている。
遺構は東南部の一部が残るだけで、それから舘全体を思い描くことは難しい。
現在、南東部の土塁や堀の遺構が残っているが、竹藪になっており大変に見づらい。また、人家の庭先にも所々土塁が残っているが、消滅の危険がある。現にすこし削られたところが見受けられ、今残る遺構は是非とも保存されることを願いたい。

道 案 内
国道8号の木之本IC口交差点から東に540m程行った木之本交差点を右折し、南に1.4km程行った千田交差点を左折する。県道261号に入り、西に860m程行った十字路を左折(右折すると赤後寺)し、南に90m程行って左折する。東に130m程行くと舘跡(竹藪の中)で、車の通行はほとんどなく少しの間であれば道路に駐車しておける。

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