No25481-19 野村城、多賀舘 (のむらじょう、たがやかた       

多賀氏の墓碑 東屋敷の土塁

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 東浅井郡浅井町野村
築城年 : 室町期
形  式 : 平城(居舘)
遺  構 : 土塁、堀      
訪城日 : 平成22年5月3日

歴   史
野村氏は、佐々木氏の分流と云われるが、六角氏や京極氏の盛勢に押され隋属したが、当地の野村氏は同地内の多賀左近、又は京極氏被官の多賀氏に仕えていたと伝わる在地領主で、野村城はその居館跡である。
多賀左近は、南北朝期に伊吹の天清城を本拠として北朝方に付き活躍し、野村に移り舘を構えたのが多賀左近舘である。
しかし、文明期には一族の内紛により多賀氏は一時衰退し、永正頃上坂家信の代官として大西昌範が野村に居住しており、多賀左近舘は代官屋敷とされたようである。
同じくこの頃野村氏も衰退し、湖南地方の同族を頼っていたと考えられている。
その後、大永3年(1523)浅井亮政が今浜城(のちの長浜城)に上坂氏を攻め、同8年内保河原で上坂家信・信光父子を撃ち破り、上坂氏を没落させたことにより、多賀氏および野村氏は、復権を果たしたようである。
野村城は、野村氏の一族が横山城に入った天文頃に横山城の北の要として築城され、浅井氏が織田信長に抗するに及び本格的に手を加えられたと考えられている。

構造と感想
野村氏の居館は、集落中心にある小字西屋敷・東屋敷・川南にあった。屋敷跡は、北国脇往還を挟み東屋敷は野村伯耆守の屋敷跡と伝わり、北東隅に土塁、土塁東外に堀が残っている。角部は横矢掛かりとなっている。西屋敷は野村兵庫頭の屋敷跡と伝わり、西側の土塁が30m程残り、中央部の南よりに東に土塁が突き出している。川南は野村肥後守の屋敷があったと伝えられる。
三つの屋敷は草野川と姉川の井堰からの分水路で周濠され、さらに個々の屋敷を一括して防御する外堀と土塁を廻らしていた総構えの痕跡が残るようである。
東屋敷の東側に天台宗寺院の阿弥陀寺があったと云う小字寺東があり、多賀左近の屋敷があったと伝わる。約60m四方で北東端に土塁の痕跡が僅かに残っているらしい。屋敷の東側と南側は水路を利用した堀があった。
遺構は一部に残る程度であるが、集落全体が舘跡かと思えるように彼方此方に僅かずつ遺構が残っている。

道 案 内
 西屋敷の土塁
県道37号線の長浜IC交差点から東に3.6km程行くと国道365号の国道東上坂交差点に出る。その交差点を左折し、国道365号線を北西に1.3km程行った野村橋北詰交差点を右折する。東に210m程行った野村南のバス停で左折する。集落内を北に220m程行った十字路の左右奥手が城跡です。
                          

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