No25481-18 三田村城 (みたむらじょう)       

南側の虎口 土塁上の鐘楼

城郭の概要
別  名 : 三田村氏舘跡
所在地 : 東浅井郡浅井町三田村
築城年 : 室町期から戦国期
形  式 : 平城(居舘)
遺  構 : 郭、土塁、堀、虎口、       
訪城日 : 平成23年8月25日 北郭の土塁と堀

歴   史
西側の土塁

京極氏や浅井氏に仕えた土豪・三田村氏の居城である。
元亀元年(1570)の姉川合戦の際は、三田村左衛門は浅井氏方として横山城の守将であった。姉川合戦後は、小谷城の中ノ丸に籠もっていたが、小谷城落城の前年・元亀3年(1572)8月27日に羽柴秀吉を通じて降参したものの信長よって討伐されたと伝わる。
姉川合戦後、当城は廃墟と化し、打ち首になった三田村一族を含む77名が猫塚と称する小字西三昧の地に葬られた。
なお、伝正寺は三田村城の主郭であったと考えられ、姉川合戦で朝倉景健が本陣を当寺に置いた可能性が強い。
この城の城主として史料では、三田村左衛門大夫氏光、同相模守、多賀備中守が居住したと伝える。


構造と感想
姉川と草野川の間に位置する三田村集落の中心部にある城館で、三田村左右衛門屋敷が知られており、その跡に伝正寺が建立されている。
この屋敷は四方60m程の敷地を有し、四周には今も土塁が残り、西側は幅約4m、高さ約.3.5mで、伝正寺の正面にあたるやや南寄りに参道入口が設けられ、参道はクランク状に折れて本堂に続いている。鐘楼は参道入口の北側やや広めの土塁上に建てられており、参道入口は虎口跡で、鐘楼は見張り台的な施設が存在していたものと考えられている。
北側土塁は、かつて東側土塁と溝口を隔て接するまで伸びていたといい、西端の外側には小さな沼地があったと伝えられる。南側土塁は最高値2.5m、最大幅5mあり、北・西の土塁に対して幅がやや広いが低めになっている。この中央やや西寄りに溝口が設けられ、寺内の庭園を経て北東に抜けるため、内堀があったものと思われる。東側土塁は伝正寺の東にある景流寺・北野神社との境目をなし、北端から35m程南下した所でL字状に5〜7m位寺側に折れており、更に再び南に折れて南側土塁と繋がっている。なお、景流寺の敷地南面には伝正寺の外溝がそのまま続いているため、三田村一族の屋敷地が伝正寺周辺に群集していたと考えられ、小字北の里・南の里・西の里・東の里はいずれも孫字名に屋敷地の名を残している。
湖北地方に多い平地城館の中でも遺構の残りが良い城跡である。伝正寺の北側の公民館周りにも土塁が残っており、今も複数の屋敷地の存在を確認できる。
平成19年7月26日「北近江城館跡群」の一つとして国史跡に指定されている。

道 案 内
県道37号線の長浜IC口交差点を西に330m程行った山階町東交差点を右折し、北に県道を1.5km程行き、国友町交差点で右折する。県道271号線に入り1.1km程東進して姉川に出る。姉川を渡り北進すること425m程で右折、東に1km行った三田南のバス停で左折する。集落内を北に250m程(途中のクランクは左、右に)行った右手の寺が城跡である。

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