No25463-07 朝妻城 (あさずまじょう)       

<北東より中島神社を望む、手前は堀跡

城郭の概要
(南側の堀跡・舟溜まり
別  名 :
所在地 : 坂田郡米原町朝妻
築城年 : 天文年間(1532〜1555)
形  式 : 平城
遺  構 : 堀跡
訪城日 : 平成22年10月23日  

歴   史 朝妻湊の碑
新庄氏は 藤原秀郷の後裔季俊の末とされている。室町期初期の俊名の代に坂田郡近江町新庄に居住して新庄を称した国人である。箕浦城の今井氏は本家筋にあたる。
天文年間(1532〜1555)に新庄蔵人直昌が朝妻城を築城したとされ、直昌の子・直頼は浅井氏に属していたが、元亀2年(1571)に織田信長が佐和山城を落城させたとき直頼も降伏し、羽柴秀吉の馬廻りとなった。直頼は天正11年(1583)に摂津山崎へ移封され、この段階で朝妻城は廃城になったと考えられている。
なお、子孫は常陸麻生藩主(茨城県行方市)として明治まで大名家として存続し、墓所は総寧寺(寺倉)にある。 

構造と感想
朝妻は天野川が琵琶湖に流れ込む所にあり、古代より朝妻湊が設置され、湖上交通の要衝の地であった。
城跡は中島神社社地となっており、城郭遺構は残っていないが、小字「向蔵」は地元で殿屋敷と呼ばれている。近年まで南北200m、東西200mにわたって濠が四囲を廻っていたが、南の濠は幅が広く舟溜まりと考えられている。現在は埋め立てられ公園に利用され、東と北の濠も水路として僅かに残存する程度ある。中島神社周辺にも50m×50mの濠が廻っていたとされ、また、近隣には「馬場」と呼ばれる小字も存在する。
地元の方に聞くと中島神社の北東にある畑地が城の中心であったようで、現在も東と北側に堀跡とされる水路が廻っている。
また、朝妻城に関連する遺構か不明であるが、北東270m程の所に朝妻神社があり、社殿西側に幅7m、深さ1m、長さ25m程の大きな空堀が残存している。 

道 案 内            
 朝妻神社の空堀
国道21号の米原IC口交差点を西に2.1km程行った西円寺交差点で左折し、国道8号に入る。国道8号を北に1.1km程行った顔戸南交差点を右折し、県道235号線に入り西に2.7km程走ると琵琶湖岸の世継交差点に出る。その交差点を左折し、湖岸沿いを南に480m程行くと朝妻交差点で、そこを左折して東に40m進み右折する。その先の突き当たりが中島神社でその辺りが城跡である。
なお、中島神社の北東270mに朝妻神社があり空堀が残る。         

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