No25461-03 須川山城 (すがわやまじろ)       

土塁 堀切

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 坂田郡山東町須川
築城年 : 不詳
形  式 : 山城(標高237m) 
遺  構 : 土塁、空堀、竪堀、堀切、土橋
訪城日 : 平成22年2月28日

歴   史
頂部の南斜面石列
遠藤氏は、鎌倉武士の出身といわれ鎌倉時代に近江に所領を得て下向したとされ、代々須川一帯を治め須川城を居としていたことから、当城は同氏の築城と考えられている。
元亀元年(1570年)には、織田信長の江北侵攻に備えて、浅井氏が江濃国境に設けた南北の防御ラインである長比城(野瀬山城)、須川山砦、千畳敷遺構(田中の城)、大峰砦、上平寺城(刈安尾城)の間に位置することから、当城もその一翼を担った可能性が指摘されている。
同年6月19日に長比城や上平寺城の守将であった堀秀村とその家老・樋口直房が戦わずして開城した時点で、当城も織田方の掌握下に入ったと思われている。

構造と感想
須川集落の北東背後に張り出した舌状尾根に位置している。標高237mの頂部を中心に100m四方の間に遺構が残る。頂部南側に石垣を残す東西20m、南北14mの郭と東側に一段下がった東西25m、南北30mの東端に弓形の低土塁を有する郭を中心として、西側から北側の斜面に5〜6段の帯郭(幅3〜7m)が廻っている。
頂部の南側は、江戸期に伊邪冊神社の境内となり、現在は移転し跡地に落とし積み石垣や石段、燈籠等が残っていることから江戸期に大きな改変を受けていて、城の遺構か判然としないが、南西コーナーに竪堀状の石積み等が残る。
東側は、谷が北から南に食い込んで急崖を成し、南東部分を堀切で狭め土橋を越えると低土塁の付属した長さ20mの通路となり、背後の尾根に登る山道に繋がる。当城の搦め手と考えられ防御を固めている。
主郭遺構は不明瞭で石灰岩の露岩も多く削平も甘いように思えるが、東側の一段下がった郭は、土塁、虎口部の石列、堀切、竪堀、長土橋等の遺構が観察でき、間違いなく城跡と思える。

道 案 内 (頂部の郭)
国道21号の米原IC口交差点から東・大垣方面に8km程行った柏原交差点で左折し、県道551号線に入る。北に1.8km程行った須川バス停のあるT字交差点を右折し、東に330m程進むと須川集会所前に至る。その山手に観音堂がありそこが須川城跡である。
さらに左手奥に進み人家中を北に80m、右にカーブし東に80m行くと専了寺前に至る。寺に東側の池の土手を北に40m行くと山裾で、旧伊邪冊神社跡に登る参道があり、10分弱登ると須川山城跡である。

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