No25443-02 曽我城 (そがじょう)       

曽我神社 赤田家遺跡の碑

城郭の概要
 曽我家墓所
別  名 :
所在地 : 多賀町曽我
築城年 : 不詳  
形  式 : 平城(居館)
遺  構 : -
訪城日 : 平成22年4月11日       

歴   史
曽我氏は相模国足柄郡曽我庄出身で、承久3年(1221)承久の乱における宇治川合戦で祐重が戦功を挙げ、久徳郷曽我の地頭職に補任され、その祐重により曽我城は築城されたとされる。
応永年間(1393~1427)になると京極道誉の勢力が多賀庄にも及び曽我氏は衰退し、代わって越後国三島郡赤田保の地頭だった赤田備が近江に移り住み、栄が曽我城を本拠とした。赤田氏は嵯峨源氏渡辺氏の支流で、近江守護佐々木氏に仕えた。
永正年間(1504-21)隼人正隆の時に八町城に移り曽我城は廃城となった。
その後、久徳郷に城を構えたのが久徳城主・多賀二郎定高である。

構造と感想
曽我祐重と師助を祀る曽我神社が建てられている所が曽我城跡とされる。境内には曽我氏代々の墓石と曽我兵庫允の碑が残されている。
また、曽我神社の西側山麓にある開蓮寺は曽我氏の後に曽我城主となった赤田氏の菩提寺で、境内には赤田家遺跡之碑が建てられている。
なお、中世城郭分布調査の城郭分布図では、この開蓮寺辺りを城跡としており、曽我氏時代と赤田氏時代で城館の位置が異なるのか?
赤田氏は、地域開発に力を尽くしたと云われ、近くには赤田川と呼ばれる川が今も流れており、灌漑用水として田畑を潤している。

道 案 内            
名神彦根ICを出た国道306号の原町交差点を東に3.9km程行った曽我バス停付近で左折し、北に80m程進んだ突き当たりで右折する。東に50m程行った左手に曽我神社(光明寺の西隣)がありここが城跡とされる。
なお、突当たりを左折して直ぐの右手路地に入って獣除けフェンスを開け階段を登ると「開蓮寺」で、寺の東上方に赤田家遺蹟之碑がある。ここを城跡とする説もあるようだ。

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