No25423−05 島川城 (しまがわじょう)       


北城の土塁跡

南城(南殿城)の城址碑 北城(北殿城)の城址碑

城郭の概要                  
別  名 : 北殿城(北城)、:南殿城(南城)
所在地 : 秦荘町島川
築城年 : 明応5年(1496)
形  式 : 平城
遺  構 : 土塁、堀跡
訪城日 : 平成25年8月25日

歴   史
明応4年(1495)美濃土岐氏に継嗣争いが起こり、土岐元頼と石丸利光が観音寺城の六角定頼に支援を求め、一方の政房を奉じた斎藤利国は京極高清に支援を求めた。
土岐元頼と石丸利光は、継嗣争いに敗れ、南近江の六角氏の許へ逃れるが、明応5年(1496)細川氏、六角氏、北畠氏らの後援を得て、南近江で兵を集い伊勢から美濃へと進軍した。
この際、六角氏家臣の伊庭城主・伊庭出羽守貞隆が島川城に入り、征濃の軍士を招集したと金剛輪寺下用帳に記されている。
その後、矢守壹岐守と喜多川彌介が在城したが、元亀年間(1570〜73)織田信長の攻撃を受けて落城し、そのまま廃城になった見られている。

構造と感想
島川城は、宇曾川沿いに存する北城とその南100m余隔てた南城から成っている。
中世城郭分布調査報告書によると、北城にL字状の土塁や高さ4〜5mの土塁に堀が残るとされているが、現在では竹林にL字状の土塁の一部が僅かに残るのみである。広場の北隅に城址碑が、南西隅に彦根藩時代の船着場跡の碑が建てられている。それ以外の遺構は何もない。
南城は秦荘町秦荘西小学校となっており、遺構はない。
南城(南殿城)が平素の居館で、北城(北殿城)が戦闘時の城の役割を果たしていたと推測されている。

道 案 内
名神高速道路を出た原町交差点を左折して国道306号に入る。国道306号を南東に3km程行った中川原交差点で右折し、県道330号線に入り、南に1.4km程直進した突き当たりのT字路で右折する。県道224号線に入り、西に440m程行った土田南交差点で左折する。また、県道330号線となり南に3.3km程行くと甲良町役場前交差点に至り、直進し県道13号線に入る。県道13号線を南に2.8km程行った東出交差点で右折し、県道220号線に入る。西に690m程進んだ目加田東交差点で左折し、県道221号線に入る。南西に1.7km程行って宇曽川の橋を渡って直ぐを左折し、堤防上を270m程走り橋の所で右手の坂道を下った左手の広場奥が北城である。
南城へは、広場から集落内を南西に160m程進み、県道28号を横切る。さらに南西に60m程行くと小学校の北角に至る。左折して東角まで行くと城址碑がある。

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