伊庭城は、佐々木氏宗家である佐々木経方の子・行実の四男・高実が建久年間(1190〜 1199)に伊庭の地を領し、築いたとされる城郭である。
しかし、保元元年(1156)に崇徳上皇から源為義が伊庭荘を賜ったと「平家物語」に見え、また、鎌倉時代(1185頃〜1333)には九条家の荘園であったと伝えられ、これらのことと伊庭氏とのかかわりは解明されていない。
その後、南北朝(1336〜1392)の動乱期を迎えると伊庭氏は佐々木六角氏に属して活躍し、守護代に任じられるとともに、伊庭内湖周辺に広がる水田地帯の豊かな生産力や琵琶湖の湖上交通の掌握などを背景に強大な権力を持つようになっていった。
特に、佐々木六角氏による寺社や将軍奉公衆の領地の押領に対し、長享元年(1487)の将軍・足利義尚による第一次六角征伐および延徳3年(1491)の足利義材による第二次六角征伐を受け、山内・伊庭両氏を中心に家臣団が団結してこの難局を乗り越えるが、第二次六角征伐において六角氏一方の旗頭である山内政綱が戦死したことで、伊庭氏に権力が集中することになり、六角氏にとって伊庭氏は危険な存在となっていった。
こうした伊庭氏の勢力拡大を恐れた佐々木六角氏は、文亀2年(1502)六角高頼が伊庭貞隆の排除を企て、伊庭の乱が勃発した。貞隆は一旦湖西へ逃れるが管領細川政元の援助を得て攻勢に転じ、高頼を蒲生氏の音羽城に追い詰め、地位を高めつつ室町幕府の仲介で和睦している。永承4年(1507)管領細川氏の内紛から将軍職を巡る争いへと発展し、これに伴い六角氏と伊庭氏の対立も再燃し、永正11年(1514)に水茎岡山城主・九里信隆が高頼によって謀殺されると、伊庭貞隆・貞説父子は信隆の子・浄椿と組んで六角氏に抗した。伊庭氏らは江北の戦国大名浅井亮政の支援を受け、永正13年(1516)には観音寺城を攻めたが失敗し、永正17(1520)高頼の子・定頼の軍勢に攻められた伊庭父子は九里氏とともに水茎岡山城に立て籠もったが敗れて没落した。
江戸時代に入り、永禄11年(1697)旗本三枝氏が伊庭領主となって陣屋を構え、明治に至っている。
|