No25403-4 伊庭城 (いばじょう)       

北側に残る石垣 西側の水堀

城郭の概要
別  名 : 伊庭陣屋
所在地 : 神崎郡能登川町伊庭
築城年 : 建久年間(1190〜1199)
形  式 : 平城
遺  構 : 堀、石垣
訪城日 : 平成22年7月17日

歴   史

伊庭城は、佐々木氏宗家である佐々木経方の子・行実の四男・高実が建久年間(1190〜 1199)に伊庭の地を領し、築いたとされる城郭である。
しかし、保元元年(1156)に崇徳上皇から源為義が伊庭荘を賜ったと「平家物語」に見え、また、鎌倉時代(1185頃〜1333)には九条家の荘園であったと伝えられ、これらのことと伊庭氏とのかかわりは解明されていない。
その後、南北朝(1336〜1392)の動乱期を迎えると伊庭氏は佐々木六角氏に属して活躍し、守護代に任じられるとともに、伊庭内湖周辺に広がる水田地帯の豊かな生産力や琵琶湖の湖上交通の掌握などを背景に強大な権力を持つようになっていった。
特に、佐々木六角氏による寺社や将軍奉公衆の領地の押領に対し、長享元年(1487)の将軍・足利義尚による第一次六角征伐および延徳3年(1491)の足利義材による第二次六角征伐を受け、山内・伊庭両氏を中心に家臣団が団結してこの難局を乗り越えるが、第二次六角征伐において六角氏一方の旗頭である山内政綱が戦死したことで、伊庭氏に権力が集中することになり、六角氏にとって伊庭氏は危険な存在となっていった。
こうした伊庭氏の勢力拡大を恐れた佐々木六角氏は、文亀2年(1502)六角高頼が伊庭貞隆の排除を企て、伊庭の乱が勃発した。貞隆は一旦湖西へ逃れるが管領細川政元の援助を得て攻勢に転じ、高頼を蒲生氏の音羽城に追い詰め、地位を高めつつ室町幕府の仲介で和睦している。永承4年(1507)管領細川氏の内紛から将軍職を巡る争いへと発展し、これに伴い六角氏と伊庭氏の対立も再燃し、永正11年(1514)に水茎岡山城主・九里信隆が高頼によって謀殺されると、伊庭貞隆・貞説父子は信隆の子・浄椿と組んで六角氏に抗した。伊庭氏らは江北の戦国大名浅井亮政の支援を受け、永正13年(1516)には観音寺城を攻めたが失敗し、永正17(1520)高頼の子・定頼の軍勢に攻められた伊庭父子は九里氏とともに水茎岡山城に立て籠もったが敗れて没落した。
江戸時代に入り、永禄11年(1697)旗本三枝氏が伊庭領主となって陣屋を構え、明治に至っている。


構造と感想
 (城跡に建つ公民館の謹節館) 
伊庭城は、江戸時代に三枝氏が陣屋を置き、現在は公民館として使用される勤節館のある一帯であったとされ、小字名を「西殿」と呼ぶ。その広さは100m四方である。東隣には小字「東殿」が、さらに東に「古城」なる小字が残っており、伊庭氏時代の伊庭城の正確な位置は分かっていない。
城跡とされる伊庭集落を訪れると、現在でも豊富な水量を誇る水路が縦横にめぐっており、当時は堅固な水城であったことを窺い知る事が出来る。特に勤節館の四囲には石垣護岸の水路が残り、水堀の風情が色濃く残されている。       

道 案 内
国道8号を彦根方面から来て愛知川を渡った直ぐの簗瀬交差点を右折し県道52号線に入る。西に4km程道なりに進みJRアンダーを通過し、能登川中学校前交差点で左折する。南に1.3km程行った能登川交差点を右折し、西に870m程進み集落内の十字路を左折すると直ぐに右カーブとなり、カーブを曲がりきって、160m程西に行くと勤節館前の陣屋橋に至る。左手が伊庭城跡とされる陣屋跡である。

TOPへ 戻る