No25383−15 摂取院 (せっしゅいん)       

南西側の土塁跡 南東隅の土壇

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 蒲生郡日野町内池
築城年 : 戦国期
形  式 : 平城
遺  構 : 土塁
訪城日 : 平成23年2月12日

歴   史
蒲生貞秀死後の大永2年(1522)に秀紀(貞秀嫡男の子)と高郷(貞秀二男)の家督を巡る内紛から秀紀が音羽城に籠り、これを高郷が攻め、高郷に対して六角定頼が2万の援軍を派遣し、8ヵ月間に及ぶ籠城戦の末、ついに秀紀は降参、開城した。
この戦いは六角定頼の仲介で和議が成ったが、定頼が支援する高郷側に有利な条件が与えられ、蒲生氏の家督は秀紀から高郷の嫡男である定秀に移譲され、対する秀紀は音羽城を退去させられ鎌掛城に移り、音羽城は破却、廃城となった。大永5年(1525)12月には秀紀が高郷・定秀父子の送り込んだ刺客によって毒を盛られ暗殺され、宗家は断絶している。
高郷は晩年この地に隠棲し、享禄3年(1530)に没したが、その館跡に法名を冠した寺院が建立された。これが摂取院である。

構造と感想
蒲生高郷の隠居館跡で周囲には土塁の痕跡と思われる箇所が残っている。寺の南西側と鐘突の土台に痕跡が感じられる。また、境内の墓地に高郷の墓や室町期の宝篋印搭、高郷の木像等が伝わっているようである。

道 案 内
名神高速道八日市インターを下りて国道421号を東の永源寺方面に進み、2.4km程行った国道307号との(御園)交差点を右折し、国道307号に入る。南に9.1km程行った松尾交差点(右手の公園に蒲生氏郷公の像がある。)を右折する。日野の商店街を通り西に1.5km程行った、左手が摂取院で館跡である。 

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