No25343−07 古城山城 (ふるしろやまじょう)       

主郭の社殿跡と北西土塁 土塁状の南東尾根と郭

城郭の概要                  
別  名 : 岩蔵城または弥勒寺城
所在地 : 野洲郡野洲町大篠原
築城年 : 西安2年(1300)なたは応永8年(1401)
形  式 : 山城(標高259m)
遺  構 : 土塁、堀切、石垣
訪城日 : 平成23年1月29日

歴   史
古城山城は、西安2年(1300)築城の岩蔵城若しくは応永8年(1401)築城の弥勒寺城のいずれかに該当する城と考えられている。両城とも六角氏が築き家臣の馬淵氏が守備したと伝えられている。
馬淵氏は、佐々木定綱の五男である廣定を祖とする。建保6年(1218)兄・廣綱が御幸に供奉せし時の勲功によりに近江馬淵庄を源実朝より賜ったが、承久3年(1221)の承久の乱で上皇方として敗れ、廣綱は斬首された。その跡を廣定が受け継ぎ馬淵氏を称した。代々近江守護六角氏に仕え、南北朝時代の初めから室町時代前半にかけて守護代として活躍している。特に廣定の曾孫にあたる義綱は、延文・貞治年間(1356〜68)に著しい活躍を見せ、六角氏の領国支配を支えた重臣であったことが窺える。
しかし、永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を奉じて上洛する際、六角氏に従い馬淵氏は信長に抗したため、織田軍により攻め滅ばされたと云われる。
<設置説明板より>
馬淵氏が城郭を築いたため古城の名がある。今は石垣の一部が残るのみである。
応永年間(1394〜1427)に岩蔵寺が再興された際に造られた六坊の一つである桜本坊は、古城山山頂に存し、明治の神仏分離により神道化して桜本社と称した。小さな社殿が建っていたが、第二次大戦後に廃された。

構造と感想
北西虎口外の折れ

桜本池の南東の上方尾根の鞍部が虎口となっている。
その虎口脇に方形の郭が設けられている。
小堤城山城が築かれてからは出城となったと考えられており、虎口付近には戦国末期の石積みが残っている。
小堤城山城から尾根筋を東から北へ辿ると古城山城の南西端の堀切に至る。この城も観音寺城や小堤城山城と同じく、主郭は山頂ではなく山頂より北西側に一段下がったところにあり、南東側の山頂を含む尾根と北西側の尾根を大きな土塁と見立てて防御ラインとし、谷状地形にある郭を防御している。
南側の山頂と主郭の中段に等高線に沿って帯状の郭が設けられている。その下方谷部が長方形の主郭で北東側を除き土塁と尾根により囲繞されている。北東は一段下がり南東側の半分を今も水を湛える桜本池が占めている。この下段の北西面と、北東面に虎口が開き、石積みが築かれ、城道に複雑な折れを生み出している。北端隅には櫓台を設け虎口を制圧するとともに、平野への見張り台の役割を担ったと思われる。

道 案 内
小堤城山城の山頂郭から南東方向に伸びる尾根伝いを左に大きくカーブしながら10分程歩くと城跡に至る。
(小堤城山城への道順)
名神高速道竜王インターを下りて国道477号を北に4.2km程行った西横関交差点で左折し国道8号線に入る。国道8号を南西に4.2km程行った左手にある平田工機の工場手前で左折し、工場の東側を通り山に向かって道なりに630m程進むと林道にゲートがあり施錠されている。その左手の空き地に駐車し、林道を奥に490m程入ると「城山まで900m」の案内板があり、そこで右手の林道に入る。林道を山の方へ直進すると次に「城山まで600m」の標識があり、その先の新設林道を真直ぐ山に向かって登る。200m程登ると林道が左にU字カーブになり、この途中の「城山登り口」の標識から沢沿いに山に入る。300m程先に「左:城跡コース、右:尾根コ−ス」の標識がある。左に入り、すぐに右手に曲がり、段郭や土塁、石垣を見ながら谷筋の大手道を登ると主郭の下に至る。主郭に縄張図があり探訪ルートが示されている。

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