No25343−06 小堤城山城 (こづつみしろやまじょう)       

主郭の北東上方郭の櫓台石垣 主郭虎口外の城道の折れ

城郭の概要                  
 主郭北西方向
別  名 :
所在地 : 野洲郡野洲町小堤、辻
築城年 : 文明12年(1480)
形  式 : 山城(標高286m)
遺  構 : 虎口、土塁、石垣、堀切、竪堀、
訪城日 : 平成23年1月29日   

歴   史
小堤城山城は、永原七郎左衛門の城跡と記された古絵図があり、また「永原氏由緒書」には、文明12年(1480)小堤村の続きの山に城を築き、永原重秀が入ったと記され、永原氏の山城とされているが、小堤城山城に関する文献は乏しく、「永原上下の城」や「長原上の城」などの記述がみられる程度で、「永原上の城」が小堤城山城を指し、「永原下の城」が上永原城を指すものと考えられている。

永原氏の出自は明確ではないが、先祖は関東の出身とされ、本姓を藤原氏と称して、藤原鎌足の後裔と伝わる。永徳(1381〜84)・明徳(1390〜94)の合戦で永原大炊助宗行が軍功をたて野洲郡内に十八郷の増地を受けて以降、武威をますます増し、野洲・栗太・甲賀の一部まで勢力を拡大し、大永年間(1521〜28)頃には六角氏重臣の馬渕氏との被官関係を脱して、近江守護六角氏と直接主従関係を持つようになり、天文年間(1532〜55)には六角氏と共に京都に出陣するなど重きを占める家臣となっていく。
しかし、永禄11年(1568)織田信長の近江侵攻に際して、永原氏一族の多くは信長に帰参するが、永原越前守重虎は信長の調略に応ずることなく出奔し、嫡家は断絶してしまった。織田氏の近江支配時代には野洲郡を領した佐久間信盛が在城したと伝えられている。

北尾根の堀切(下方は主郭)         山頂東端の切岸  

構造と感想
小堤城山城は、野洲・栗太の両郡内で最大の山城である。現存する遺構には、観音寺城でも見られる自然の尾根を土塁に見立て一段下方の主郭部を防御する手法が採り入れられており、また、郭の前面を中心に石垣が各所に構築されており、とても六角氏家臣クラスの山城とは思われず、野洲・栗太両郡を押さえる城として、さらに甲賀郡方面への繋ぎの城として六角氏の支城網の一角を担っていた考えられている。
山頂の郭から南東と北西に伸びる尾根上に小規模な郭を連続して配置し、山頂から一段下がって北から北西へと伸びる尾根上に二本の堀切で区画された二つの郭が続いている。この両尾根に抱かれた谷筋の最上部に主郭が構えられている。主郭は35m×40m程の広さで、南西面と北西面を石垣で固め、南西隅の虎口から石垣沿いにクランクして谷筋下方へと通じる城道を設け、主郭から強力な横矢を利かせている。谷筋の城道でも折れを入れ、また両側には郭を設け城道を守備している。
この城跡は本当に見所一杯である。要所に築かれた石垣、石垣とセットで侵入者の直進を妨げる城道、鋭い大規模な堀切、自然石を利用した切岸などワクワクする遺構ばかりであり、満足すること間違いなしである。

道 案 内
主郭下方の城道
(右に折れ、左に折れて虎口に至る。)
名神高速道竜王インターを下りて国道477号を北に4.2km程行った西横関交差点で左折し国道8号線に入る。国道8号を南西に4.2km程行った左手にある平田工機の工場手前で左折し、工場の東側を通り山に向かって道なりに630m程進むと林道にゲートがあり施錠されている。その左手の空き地に駐車し、林道を奥に490m程入ると「城山まで900m」の案内板があり、そこで右手の林道に入る。林道を山の方へ直進すると次に「城山まで600m」の標識があり、その先の新設林道を真直ぐ山に向かって登る。200m程登ると林道が左にU字カーブになり、この途中の「城山登り口」の標識から沢沿いに山に入る。300m程先に「左:城跡コース、右:尾根コ−ス」の標識がある。左に入り、すぐに右手に曲がり、段郭や土塁、石垣を見ながら谷筋の大手道を登ると主郭の下に至る。主郭に縄張図があり探訪ルートが示されている。  

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現地の縄張図
<<<平成27年3月22日再訪で石垣を中心に写真撮影>>>
主郭の北東上方郭の北東面石垣 主郭の南東上方郭の虎口の右手石垣
頂部郭の東面石垣の算木積 主郭の南東上方郭への石段
主郭背後の上方郭の虎口桝形 観音寺城を望む