伊賀上野城  No24206−01 (いがうえのじょう)       

模擬天守 西側内堀

城郭の概要                  
別  名 : 白鳳城
所在地 : 伊賀市(上野市)上野丸の内
築城年 : 天正13(1585)
形  式 : 平山城
遺  構 : 模擬天守、石垣、堀、
訪城日 : 平成25年3月2日

歴   史
天正9年(1581)「天正伊賀の乱」を経て伊賀国を平定した織田信長は、守護に次男信雄の家臣である滝川雄利を任命した。雄利は平安時代に平清盛が建立し、天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺の跡に新たな城砦を構え、伊賀国を支配した。新たに構えたこの城砦が、伊賀上野城の前身である。
しかし、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの際に脇坂安治が落城させ、同年10月伊賀国守護となったが、翌天正13年(1585)5月には摂津に移封となり、その8月筒井定次が大和国郡山から伊賀上野に入封した。
定次は、天正15年(1587)から平楽寺・薬師寺のあった台地に築城を開始し、文禄年間(1593〜96)に高丘の頂上に本丸、その東寄りに三層の天守を建て、本丸の西に二ノ丸、北の山下に三の丸を配し、大手を三ノ丸の北谷口とする大城郭を完成させた。
しかし、慶長13年(1608)6月定次は失政を理由に改易となり、代わって伊勢・伊賀22万石余を与えられた藤堂高虎が伊予国今治より入部した。高虎は徳川家康の命を受け、大坂の豊臣方との決戦に備え慶長16年(1611)より城の大改修に着手した。本丸を西側に拡張し、30mを超す高石垣を巡らし、南を大手とするなど西方の防御を固めた。5層の天守は、慶長17年(1612)9月建設中に大暴風で倒壊したが、外堀の土塁上には二重櫓2棟、一重櫓8棟の櫓が建てられ、長さ21間、両袖に7間の多聞櫓をつけた東西の大手門などが建設された。
慶長19年(1614)とその翌年の大坂の役で豊臣家が滅亡すると、元和偃武により諸大名の城普請は禁止され、伊賀上野城の改修も中止されて天守は再建されなかった。なお、一国一城令の元でも「伊賀の城」として存続を認められ、藤堂氏の支城として城代が置かれ明治を迎えている。

構造と感想
伊賀上野城は、元和偃武により途中で改修が中止され未完である。本丸の東側に二ノ丸、西側に御殿があり、それらの南側に一段下がって武家屋敷が配され、外周を外堀が廻っていた。北側は筒井期時代の土づくりの郭や斜面が広がり、山下には馬場が置かれ、こちらも外堀が廻っていた。
現在、伊賀上野城跡の本丸とその東側、北側の高台部分が上野公園として整備されている。
昭和10年に再建された木造三層の大天守と二層の小天守からなる複合式天守が往時の天守台上に建ち、内部は資料館に利用され、伊賀のランドマークタワーとなっている。
この城の最大の見どころは、なんと云っても本丸西側にある「コ」の字状の高さ30mもある内堀の高石垣である。藤堂高虎が築いたもので、扇の勾配が優美な一方、その高さは壮大で圧巻である。石垣上から見下ろすと足がすくみ、内堀沿いから見上げると威圧感に圧倒される。
近年は、筒井時代の本丸とされる藤堂時代の城代屋敷の石垣や石段も修復が進められ、本丸内でも一段高い「本壇郭」と云える立派な石垣が蘇っている。

道 案 内
名阪国道(国道25号)中瀬インターを下りて直ぐに国道163号の西方向に入る。国道163号を西に2.5km程行った市役所手前の丸ノ内交差点で右折し、140m程北上した信号交差点を左折する。西に100m程行った右手が有料駐車場である。

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中心部の地形図


城代屋敷虎口下から




城代屋敷虎口上から

城代屋敷南側石垣


本丸西側の堀と石垣


城址碑


筒井氏時代の天守台


大手門


藩校崇広堂正門