今治城  No38202−05 (いまばりじょう)       

武具櫓、山里櫓、模擬天守 山里櫓と桝形

城郭の概要                  
別  名 : 吹揚城
所在地 : 今治市通町
築城年 : 慶長7年(1602)
形  式 : 海城(平城)
遺  構 : 石垣、内堀、模擬天守、 (復元) 山里櫓、御金櫓、武具櫓、鉄御門、
訪城日 : 平成27年9月13日

歴   史
宇和島城主であった藤堂高虎は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦での功により徳川家康から伊予半国20万石を与えられ国分山城を賜った。慶長7年(1602)6月高虎は、瀬戸内海中央部の制海権確保を目指して、蒼社川河口部左岸の今張浦に城地を定め、地名を「今治」に改め築城を開始、2年後の慶長9年(1604)9月に一応の完成を見たのが「今治城」である。作事を含むすべての作業が完了したのは慶長13年(1608)3月とされる。
しかし、同年8月に高虎は伊勢国津に移封となり、今治城には高虎の養子・高吉が2万石で在城した。高吉も寛永12年(1635)に伊賀国名張に転封となり、ついで松山藩主松平定行の弟定房が3万5千石で封ぜられ、以後、松平氏が10代230年余続き、明治の版籍奉還を迎えている。
城の建物は、明治初年にことごとく取り崩され、内堀、三の丸堀、河川として残る外堀の一部と本丸、二の丸、三の丸などの石垣が残るのみとなったが、昭和55年に5層6階の模擬天守が再建され、昭和60年には御金櫓、平成2年には山里櫓、平成19年には築城400年を記念して鉄御門・武具櫓が復元され雄大な姿を見せている。
なお、創建時の層塔型五層天守は、慶長15年(1610)に天下普請の丹波亀山城に移築され、明治まで残っていた。

構造と感想
今治城は、讃岐国高松城、豊前国中津城と共に日本三大水城の一つと云われる。
瀬戸内海に面する砂丘地帯に築かれた大規模な平城で、三重の堀には海水が引き入れられ、中堀の北隅には広い船溜まりを設け、外堀を経て瀬戸内海に通じるなど、瀬戸内海を監視する役割を担った海城である。
城の形状は整った方形を基本とし、三重の堀を巡らした輪郭式の構造をしている。この単純な構造を補い防御を固めるため、内郭を取り巻く内堀は弓矢の射程を上回る50〜70mの巾とし、石垣は9〜13mもの高さに立ち上げ、各隅には横矢を掛けられる石垣の張出しを設け、その上に二重櫓を構え、櫓間は多聞櫓や土塀で連結し、虎口は内と外に二門を設けた完璧な桝形虎口とし、また、内郭大手の土橋は片側のみの土塀とし、横矢が掛かるように配慮され、土橋の先は大型の角馬出とし、両サイドには桝形を構えるなど、高虎の築城手法が確立した城とされ、その後の城郭普請に大きな影響を与えたとされる。
往時、内堀の外は上級武士が居住する広大な三ノ丸が囲み、それを巾40mの中堀が取り巻いていた。その外側は下級武士が屋敷を構えた外郭で、それを外堀が囲繞していたが、現在は市街化して一部の痕跡を残すのみである。
しかし、内郭はほとんど完存しており、天守や門、櫓、土塀が復興されて、水堀とマッチした優美な姿が絵になる城である。最近、この城の内堀でサメが泳ぎ話題になったが、ゆったりと泳ぐ姿は海城を実感させたことだろう。

道 案 内
しまなみ海道の今治インターを下りて最初の信号交差点を右手に進み、300m程先の信号交差点で右折し国道196号(バイパス)に入る。国道196号を南西に770m程行った片山交差点で左折して国道317号に入る。国道317号を北東に2.4km程行ったドンドビ交差点で右折し県道38号線に入る。県道38号線を南東に450m程行った信号交差点で左折して北東に370m程進んだ右手が今治城である。有料駐車場が設けられている。

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黒金門・武具櫓の全景       黒金門   

 
本丸南東面石垣と内堀      内郭北西面の内堀