一宮砦  No23602−01 (いちのみやとりで)       

桝形虎口 虎口北側の土塁

城郭の概要                  
別  名 : 一宮城、一ノ宮村砦
所在地 : 豊川市(旧一宮町)一宮町宮前
築城年 : 永禄5年
形  式 : 平城
遺  構 : 土塁、堀、虎口、
訪城日 : 平成30年11月23日

歴   史
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が討死にすると、今川氏の三河支配は急速に衰え、替わって岡崎城に自立した松平元康(のちの徳川家康)が台頭したが、東三河には今川勢力が残る状態で、この地をめぐる両者の攻防が激しくなっていった。
永禄5年(1562)今川氏真が東三河を維持しようと1万の軍勢を率い出陣し、牛久保城に本陣を置き、八幡砦や佐脇砦に軍勢を展開して元康軍と激しく戦った。激戦の末に元康は八幡城を落とすと、牛久保城から野田城長篠城方面に進出する今川軍の押さえとして一宮砦を築き、本多百助信俊に兵5百を授けて護らせた。これに対し、氏真は永禄6年(1563)5千の大軍で一宮砦を包囲したが、元康は自ら3千の兵を率いて一宮砦の救援に出陣し、その攻囲を突破して砦に入り、翌朝には岡崎に帰還したと云う。この間、氏真は終始兵を動かさず、傍観していたと伝えられる。これが、大高城の兵糧入れと共に、徳川家康二大武勇談の一つ「一宮の後詰め」として語り継がれる事になる。
その後、氏真は駿河に引き上げ、牛久保城は家康によって攻め落とされた。永禄11年(1568)家康の遠江侵攻後、信俊は遠江国佐久城へ移った。

構造と感想
一宮砦は、標高24m、比高10mの豊川の河岸段丘端に築かれた砦跡で、今も南東部は急崖になり、その下には小川が流れている。今は主郭部とそれを囲繞する土塁の一部や主郭の南北両側の空堀跡が残る。西側の土塁裾に設置された城址碑の奥に見応えのある枡形虎口が残存している。

道 案 内
東名高速道の豊川インタ−を下りて、国道151号の北方向に入り、1.3km程行った砥鹿神社前交差点を右折する。東に240m程東進すると右手に砥鹿神社駐車場があり、そこに駐車させて頂く。駐車場から南へ180m程行った左手に説明板と城址碑があり、その背後が城跡である。

TOPへ 戻る


南側の空堀          東側の土塁


東側切岸         城址碑