長浜城  No22203−01 (ながはまじょう)       

二の郭 主郭

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 沼津市内浦長浜小字城山
築城年 : 室町期
形  式 : 平山城(海賊城)
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、石垣、
訪城日 : 平成23年2月6日

歴   史
長浜城は、室町時代に北条氏によって築かれたと云われるが、その築城年は詳らかでない。
北条氏は、三崎や浦賀を拠点とする三浦水軍を組織し、江戸湾から安房・上総の里見氏の勢力を駆逐する一方、今川義元亡き後の駿河に侵入してきた武田氏に対して、伊豆の水軍を組織し備えを固めた。その伊豆における北条水軍根拠地の一つが、重須湊の長浜城であった。
天正7年(1579)北条氏と武田勝頼が駿豆国境一帯で激突し、北条水軍の統括者である梶原備前守景宗が長浜城に派遣され、翌天正8年(1580)両水軍による駿河湾海戦が行われた。その勝敗は明らかでないが、天正10年(1582)3月武田氏が滅亡したことにより、一応の決着を見た。
その後、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐により、長浜城は再び緊張状態におかれたが、小田原籠城策を取り水軍の拠点を東浦(伊豆東海岸)と下田城に移したことから、長浜城は水軍基地としての役割を失い、韮山開城と共に廃城となったと考えられている。なお、水軍が移った後の長浜城を守ったのは、在地土豪の大川兵庫であった。
その後は、マグロ漁の魚見場や近代には三井家の別荘が建てられていたが、昭和40年代に取り壊され、跡地は放置されていた。
昭和60年から沼津市教育委員会により詳細分布調査が実施され、4つの曲輪と15の腰曲輪の他、土塁跡や6基の掘切等が確認され、昭和63年に国の史跡に指定された。平成7年度から平成26年度にかけて保存整備が行われ、400年前の姿が蘇っている。

構造と感想

長浜城は、内浦湾の南奥、長浜と重須の境界に北へ突き出した標高30m余の小丘陵に築かれ、その東側と西側が入り江になっており、水軍の拠点として格好の地形である。
構造は、山頂の主郭から南東へ階段状に二の郭、三の郭、出郭を、また、北東の先端に向かって四段の腰郭が構えられている。主郭から出郭までの主要郭の南西側には土塁が付帯し、郭間は空堀や堀切で区画され、現在は切通しになっている南側の尾根続きは堀切で遮断していたとされる。
主郭と二郭には掘立柱建物の柱跡が復元され、主郭東面には石垣も残っており、特に四周への見晴らしなど小規模ではあるが見所一杯の城砦である。


道 案 内
内浦湾沿いを走る県道17号線を南下していると伊豆・三津シーパラダイス前を通過する。そこから880m程道なりに進むと右手の奥に「長浜釣堀観光センター」があり、センターの方へ右折して入っていくと左手に赤い鳥居があり、ここが登城口である。その前に駐車場がある。

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鳥瞰図            三の郭の虎口 
 
三の郭と出郭間の堀切      主郭当面の石垣
 
  北東尾根の腰郭     主郭北東面の切岸と腰郭