韮山城 No22326−01 | (にらやまじょう) |
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南郭の通称「塩倉」 | 本郭から南郭への犬走りと土塁 |
◆ 城郭の概要 |
別 名 : |
所在地 : 伊豆の国市韮山韮山 |
築城年 : 延徳3年(1491) |
形 式 : 平山城 |
遺 構 : 土塁・空堀・水堀 |
訪城日 : 平成23年2月6日 |
◆ 歴 史 |
韮山城は、文明年間((1469〜86)に初代堀越公方足利政知の家臣外山豊前守が築いたのに始まり、戦国時代に北条氏(後北条氏、小田原北条氏)の祖である伊勢宗瑞(通称北条早雲)が改築し、本拠とした。 延徳3年(1491)駿河・今川氏の客将であった宗瑞は、堀越公方足利家の後継をめぐる内紛に乗じて、伊豆韮山の足利茶々丸を攻め滅ぼし、各地に割拠する小土豪層を屈服させ、伊豆国を平定した。宗瑞は、堀越御所の東方1.6q、伊豆半島北部に広がる田方平野の東部にあって、富士山・箱根山を望む籠城山に韮山城を整備し、自らの本城と定めた。 宗瑞の死後、二代目氏綱は北条氏と改姓し、相模国小田原に本拠の城を移したが、韮山城は伊豆地域を治める支城として、今川氏、武田氏など西側大名に対する防御拠点として、重要な城に変わりなかった。 元亀元年(1570)4月から8月武田氏の来襲に対し、北条氏規・氏忠(氏政の舎弟)兄弟が抗戦し、城を守り切っている。天正18年(1590)3月豊臣秀吉の小田原攻めの際は、4万4千人の軍勢に包囲攻撃されたが、3千6百の城兵の士気は高く容易に落ちず、3ヶ月に亘る籠城戦の末、徳川家康の説得を受け入れ、小田原城に先だって開城した。 北条氏滅亡後、韮山城は徳川氏の城へ変わり、内藤信成が城主となったが、 関ヶ原の合戦後の慶長6年(1601)駿河府中に転封となり、以後廃城となった。 廃城後の韮山城は、韮山代官の御囲地となったため、大きく改変されることはなく、戦国時代の姿を今に伝えている。 なお、北条氏は韮山城主だった氏規が継承し、江戸時代には狭山藩を与えられ明治維新まで存続している。 |
◆ 構造と感想 |
韮山城は、伊豆半島を南北に縦貫する山地が西方の田方平野へ張り出す突端の一角に築かれている。丘陵の突端部は、南北に細長く、東西の斜面は急崖で、東麓には大きな池があり、西麓には当時は狩野川の支流が流れ、天然の要害地形であった。さらに池を挟んで東側に和田砦、その南にひときわ高い天ヶ岳砦、また、その南側に和田島砦、土手和田砦などが韮山城を取り囲み、難攻不落の城砦群を形成していた。 |
◆ 道 案 内 |
国道136号を南下して伊豆縦貫道との大場川南交差点を直進し、そこから3.5km程南下した八坂神社交差点で左折する。東に道なりに1.4km程行くと道路が大きく右にカーブして直ぐに十字路がある。そこを直進し細い道に入り、190m程先で左折、直ぐに右折すると40m程先が韮山郷土資料館で城池(貯水池)の西側に駐車場がある。池の北西部に案内板があり、そこが登り口がある。 |
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![]() ![]() 三の郭西面土塁 三の郭東裾の空堀 ![]() ![]() 南郭の通称「塩倉」の虎口 二の郭南側の堀切と土橋 ![]() ![]() 本郭の東方向 権現郭北側の空堀 |