下田城  No22219−01 (しもだじょう)       

南西面の畝堀 二の郭東側の堀切

城郭の概要                  
別  名 : 鵜島城
所在地 :下田市三丁目
築城年 : 天正17(1589)
形  式 : 平山城
遺  構 : 土塁、横堀、畝堀、竪堀、堀切、天守台、
訪城日 : 平成23年2月5日

歴   史

南北朝時代の延元2年(1337)地元豪族の志水長門守が氏島(鵜島の旧名か?)城主であったという記録があり、この頃から城砦が築かれていたと推測されている。その後の事跡は不明となるが、戦国期に北条早雲が伊豆を掌握した後、やがて家臣朝比奈孫太郎の所領となり、北条水軍の根拠地として城砦が築かれたと云う。
天正16年(1588)天下平定を推し進める豊臣秀吉と北条氏の関係が悪化すると、5代目北条氏直は海の防衛を強化するため、伊豆衆筆頭の清水上野介康英を下田城の城将に据え、大改修を行わせた。天正17年(1589)末には秀吉との決戦が不可避となり、小田原から江戸朝忠らを派遣し、雲見の高橋氏や妻良の村田氏ら南伊豆の豪族衆も入城させ決戦に備えた。
そして、翌天正18年(1590)2月豊臣水軍勢は駿河湾清水湊に集結して、3月に陸路軍が山中城、韮山城を攻撃すると、水軍勢も出撃して西伊豆沿岸の諸城を落としながら、4月には長宗我部元親、九鬼嘉隆、加藤嘉明、脇坂安治、毛利勢ら総勢1万余の水軍が下田沖に押し寄せた。
対する北条勢は康英を大将として僅か6百余の寡兵であり、下田城の防備に徹する籠城策を採った。一方、豊臣勢は安国寺恵瓊、脇坂安治ら毛利勢を主とする軍勢が上陸し、城をめぐる攻防戦が50日に及び繰広げられたが、兵力差には抗しがたく、康英は降伏勧告を受け入れ、4月下旬に開城した。康英は、河津の林際寺に退去、この2ヶ月後に小田原城も開城し、北条氏は滅亡した。
北条氏滅亡後、下田城には徳川家康の家臣戸田忠次が5千石で入城し、慶長6年(1601)戸田氏が三河田原へ移封となり、下田城は廃城になった。以後、下田は江戸幕府の直轄領として下田町奉行の支配するところとなった。


構造と感想

下田城は、伊豆半島の南東端、下田港の湾口の西側に半島状に張り出した丘陵に築かれており、現在は城山公園となっている。
構造は、標高69mの頂部に通称天守台と呼ばれる主郭を置き、ここから尾根が三方に延び、南へ延びた尾根の中央付近からは東へ延びる尾根一本が派生し、それらの尾根の流れに沿って郭や櫓台、横堀等が構築され、下田港に面する北東側の谷を防御する形になっている。
尾根筋上の郭は、幅が狭く細長い形状で、どちらかと云えば小規模であり、6百余の軍勢の駐留が限度と思われる。一方、尾根の南東面から南面、さらに南西面に掛けて廻らされた横堀は、北条氏特有の畝堀で、総延長が700mを超えるスケールの大きなもので残りも良く、この城一番の見所である。また、尾根筋を断ち切る堀切も鋭く見事である。


道 案 内

伊豆急行「下田駅」の南側の国道414号、国道135号、国道136号が交差する中島橋交差点から国道136号を西方向の南伊豆町方面に進む。990m程行くと下田南高前交差点に至り、そこで左折し県道117号線に入る。東に670m程行くと右手に下田公園駐車場がある。
なお、下田城の南側にある水族館側からも登れる。


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           鳥瞰図             城址碑
 
主郭西方向        主郭東面の切岸