神岡城  No21625−05 (かみおかじょう)       

河岸段丘下からの遠景 内堀

城郭の概要                  
別  名 : 東町城、野尻城、冲野城、
所在地 : 飛騨市神岡町城ヶ丘1
築城年 : 永禄8(1565)
形  式 : 平山城(崖端城)
遺  構 : 模擬天守、模擬城門、空堀、竪堀、石垣、
訪城日 : 平成23年9月24日

歴   史
現在、神岡城と呼ばれるが、当時は東町城、冲野城、野尻城と呼ばれていた。
永禄7年(1564)武田信玄は重臣飯富(山県)昌景を飛騨国高原郷へ侵攻させた。この際、江馬時盛・輝盛父子氏は降伏し、その先手として大野郡丹生川村や飛騨東部に攻め入っている。翌永禄8年(1565)昌景は、江馬氏当主の時盛から三男信盛を人質として差し出させ、さらに武田氏の越中進出の足場として自らが縄張りした東町城を江馬氏に築かせた。その後、時盛は昌景の先導として越中に攻め入り、越中国新川郡中地山城を信玄から預けられ、長子輝盛を中地山城の城代とし守備させた。
しかし、元亀4年(1573)信玄が没すると輝盛が上杉方へ属することを主張し父子不和となり、この年に輝盛は父時盛を討って江馬家中をほぼ掌握した。天正4年(1576)輝盛は上杉謙信の飛騨侵攻を受けて、南飛騨を領有する三木氏とともに謙信へ臣従した。
この間に武田勢は本国へ引き揚げ、江馬氏は東町城の守備を家臣河上中務尉に命じていたが、天正10年(1582)江馬氏は三木氏に滅ばされ、その三木氏も天正13年(1585)羽柴秀吉の命を受け飛騨に侵攻してきた金森長近に滅ばされた。その後、金森氏が飛騨一国の領主となると、東町城には金森氏の家臣山田小十郎が入れられた。
元和元年(1615)東町城は幕府の一国一城令により廃城となるが、その後も金森旅館として維持された。
しかし、元禄5年(1692)金森氏が出羽国上山に転封となったことで東町城は破却され、跡地は畑地となり辛うじて空堀や櫓台の跡が残されていた。
現在の神岡城は、三井金属鉱業株式会社が神岡鉱業所創業百年を記念して、昭和45年6月丸岡城犬山城を参考に戦国時代の城郭を再現したものでる。

構造と感想
復元大手門
城は、高原川東側の河岸段丘上に築かれ、越中東街道と上宝道および吉田街道が合流する交通の要衝に位置し、対越中に対する重要な城であったようだ。
構造は、西側が急峻な崖で、他の三方に二重の空堀を廻らしている。内郭の西側中央に石垣で固めた櫓台があり、重層櫓あるいは天守が建っていたと推測される。
段丘下の街並みから仰ぎ見る城の姿は写真のように見栄えがし、街道を押させる城であったことが分かる。
現在は神岡城公園となり模擬天守が建ち、鉱山資料館や郷土資料館が併設されている。

道 案 内
国道41号を高山から北上して飛騨市神岡町の船津北交差点(神岡鉄道「かみおかこうざんまえ駅」の前)で右折し国道471号に入る。国道471号に入って直ぐ高原川を渡り 橋の東詰めで右折し、そのまま国道を道なりに1.8km程進むと道の駅「宙ドーム神岡」前に至る。道の駅の前で右折し150m先の十字路でまた右折する。右折して240m程行った十字路で左折し、その先100m程で城跡である。

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