小鷹利城  No21623−01 (こたかりじょう)       

北西側の畝状空堀群 三の郭東方向

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 飛騨市古川町信包牛ケ谷、河合町稲越
築城年 : 戦国期
形  式 : 山城
遺  構 : 堀切、竪堀、虎口、横堀、土塁、畝状空堀群、
訪城日 : 平成23年9月23日

歴   史

城歴等の詳細は不明であるが、姉小路氏の一族である向(小鷹利)氏代々の居城と伝えられている。応永12年(1405)頃には、姉小路氏は小島城の小島氏、向小島城の向(小鷹利)氏、古川城の古川氏に分流し、小鷹利城は向小島城の支城として小鷹利氏の重臣牛丸氏が在城したとされる。
永禄6年(1563)向貞熙が若年の息子右近を残して没してからは、牛丸氏が実権を握り、天正5年(1577)には逆心を起こして小鷹利氏領の横領を企て、これを察知した重臣後藤重元が右近を伴って城を脱し角川へ逃れたが、牛丸重親が差し向けた追っ手に角川村で追いつかれ、重元は防戦して討死、右近は逃げ延び母方の縁を頼り常陸の佐竹氏に仕え、向右近宣政と名乗ったと云う。
天正11年(1583)小鷹利城は三木・広瀬氏連合軍に攻められ落城、牛丸又右衛門は越前大野城主金森長近の元に逃れた。天正13年(1585)又右衛門は金森長近の飛騨侵攻により小鷹利城に復帰を果たすが、長近の処遇に不満を持ち一揆を起こし、鎮圧されて討死したと伝えられる。


構造と感想

小鷹利城は、白川郷から高山へ至る湯峰峠の南側、向小島城の西方約1kmにある標高788mの黒内山山頂に築かれている。
頂部に主郭を置き、その南・西・北側を取り巻く二の郭を梯郭式に設け、二の郭の南側に三の郭を付帯させている。この中心部から四方に伸びる各尾根には、堀切や削平地などを設けているが、中心部周辺に強固な防御施設を集中させている。
敵の正面となる湯峰峠方向の西斜面には、一部横堀を伴った十数本の畝状空堀群を穿ち、さらに北西へ続く尾根に二重堀切と小ピークの外にもう一本堀切を入れている。北側は西斜面の横堀の端を土塁を伴う竪堀として落とし、北支尾根に三段の段郭と設け、その北西側面には小竪堀を三本入れ、先端を掘り切っている。南西支尾根にも一本大きな堀切を入れ、この堀切上となる三の郭には土塁も設けている。三の郭は西に張り出ており、西斜面に対し横矢が効く。三の丸の南下方は横堀を兼ねる大堀切を入れ、東端に二本の竪堀を落としている。この竪堀の北側に登城路が登り、三の郭東面の虎口にクランクして取付く。三の郭を南西に下りた緩斜面が馬場とされる。
この城の規模は100m程と小さいが縄張りは発達しており、虎口等には金森氏の改修が窺え、なななかメリハリのある遺構を見ることができる。


道 案 内

高山市内より国道41号を北上し、飛騨市古川町の古川消防署前(稲葉交差点)から国道41号をさらに5km程行った鷹狩橋交差点で左折し、県道75号線に入り直ぐに橋を渡る。橋を渡ってから1.7km程行ったT字路を県道75号線へ左折する。さらに県道75号線を2.4km程行くと湯峰トンネルで、トンネルを出て580m程行って左折し小川を渡り直ぐの突き当りで右折する。360m程進むとY字路があり、そこを左手の林道に進む。林道を1..5km程行くと左手に草地があり、草地の先に大きな岩がある。岩の裾を山裾に向け入っていくと「馬場跡」の案内があり、30mも登ると城跡である。


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三の郭の虎口        南西端の堀切