増島城  No21621−03 (ますしまじょう)       

天守台北東隅 天守台北面

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 飛騨市古川町増島町
築城年 : 戦国期
形  式 : 平城
遺  構 : 天守台、石垣、堀、移築門、
訪城日 : 平成23年9月23日

歴   史
天正13年(1585)羽柴秀吉の命により越前国大野城主金森長近は飛騨に侵攻し、飛騨の戦国大名三木氏を滅ぼした。長近は、その功により飛騨国3万3千石を与えられ、鍋山城を居城とした。その際、飛騨国司姉小路氏の所領で、交通の要地であった古川に増島城を築き、南吉城郡内に1万石を領し宮川河畔の蛤城にいた養嗣子可重を入れ、この地を治めさせた。
その後、長近は関ケ原合戦の功によって美濃国上有知(こうずち)・関と河内国金田に2万3千石の加増を受け、翌慶長6年(1601)に上有知に隠居城の小倉山城を築き移り、可重を二代目高山藩主とした。これにより可重は高山城に移り、増島城には可重の長子重近が入った。
しかし、可重の死後三代目高山城主となったのは重近ではなく、将軍徳川秀忠の命によって四男重頼がなり、増島城主であった重近は入道して京都に去り、重頼は家臣を留守居として城を守らせた。元和元年(1615)一国一城制が令じられ、増島城の城名を廃し古河旅館と改称して存置されたが、元禄5年(1692)金森氏は出羽国上山へ国替えとなり、加賀藩主前田綱紀の預かりとなるが、元禄8年(1695)天領になったため、高山城とともに破却された。

構造と感想
古川小学校の東、増島天満神社が建っている所が増島城の天守台にあたり、周囲に積まれた高石垣やその東側と北側を巡る水堀が残っている。神社境内が本丸で、古川小学校や公民館の一帯が二の丸や三の丸であったと思われる。
なお、古川町の林昌寺と円光寺の山門は増島城の城門を、本光寺の書院は増島城書院を移築したものと伝わり、また、林昌寺には金森氏の供養塔が建てられている。さらに市街地には古い地名や屈曲した道路、短冊形の地割や家並みが残り、城下町の名残を現在も見ることができるようだ。

道 案 内
国道41号から高山から北上し飛騨市古川町に向かい、道の駅「アルプ飛騨古川」前からさらに1.2km程北上した南成町交差点で右折する。400m程先の増島町交差点を直進し、県道476号線を越えて320m程行くと橋を渡る。渡って直ぐに右折し古川小学校前を200m程走り、小学校の南角で左折する。150m程先のT字路で左折し、120m程行った左手が城跡である。
古川小学校の西隣の天満神社が城跡である。

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