久々利城  No21214−04 (くくりじょう)       

枡形虎口と三の丸 本丸から二・三の丸を見る

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 可児市久々利字薬師洞
築城年 : 応永年間(1394?1427)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、空堀、土橋、虎口、井戸
訪城日 : 平成28年11月4日

歴   史

久々利城は、三代美濃国守護の土岐頼康の弟である土岐康貞が築城したと云われるが、その年代は定かでない。康貞は三河守悪五郎を称し、その子太郎行春の時に久々利氏を名乗ったとされる。
天文6年(1537)斎藤正義が鳥峰城を築き東濃支配に武威を振るうと、久々利氏は圧服させられ正義に従ったが、天文17年(1548)正義を久々利城へ招き謀殺し、自立した。
永禄6年(1563)織田信長が小牧山城を築くと、信長の美濃侵攻を警戒し久々利氏は武田信玄から支援の約束を取付けるが、永禄8年(1565)信長が中濃攻略を成し遂げると、信玄は信長と手を結んでしまった。久々利氏は後ろ盾て失い、信長家臣で美濃金山城に入った森可成に従った。
天正10年(1582)本能寺の変で信長が斃れると、東濃の諸将は金山城主の森長可(可成の子)に反旗を翻したが、天正11年(1583)久々利頼興は長可に金山城で謀殺され、久々利城には城番として森氏家臣の戸田勘左衛門が入った。
慶長5年(1600)森氏が信濃川中島に移封され、金山城が廃城となり、その際、久々利城も廃城になった。


構造と感想

久々利城は、可児川に合流して木曾川へ注ぐ久々利川沿いに東方に切れ込む谷の最奥に位置し、南西に向け張り出した尾根の中腹に築かれ、大手を開く南西側を除いて尾根の斜面は非常に急峻で、その南麓には久々利川が流れ、天然の要害地形である。尾根と久々利川に挟まれた南麓 郷土歴史館が建つ一帯は屋敷地と考えられる所で、江戸時代には千村陣屋が置かれていた。
城は、細い谷を挟む2本の尾根上に築かれており、南側尾根が城郭部で、北側尾根の先端部が居館部と思われる。2本の尾根が合流する所で尾根筋を二重堀切や空堀により遮断し、さらに東斜面には4本の竪堀も入れ防備を固めている。
南側尾根の中腹に本丸を置き、北東上方に北の丸、南西下方に二の丸、三の丸を階段状に設け、三の丸南下に大手の大規模な枡形虎口を構えている。枡形虎口の西側から二の丸下方にかけ帯郭が延び、三の丸から二の丸の裾には横堀も入れ二重構造としている。帯郭北端部には竪堀が2本入れられている。
大手道は、西斜面を登り帯郭の中央付近に取り付き、南に折れ帯郭の南端に行き左に折れて枡形虎口に入る。虎口を入った正面に高さ2m程の櫓台があり、虎口内をクランクして東に進み、再びクランクして三の丸の東斜面を登る。二の丸、本丸も東斜面を登り、それぞれ東隅から郭内に入る。この間、城道は複雑に折れを繰り返し、常に横矢を受けて進まざるを得ない見事な構造となており、さらに各郭の切岸は高く急角度で、攻め寄せる敵を一望でき、上方からの厳しい攻撃が造りである。
南側尾根の城郭部は、遺構がよく残り、近年、木々が伐採され、非常に見学し易くなっている。中世城郭を体感いただくには、絶好の城跡である。
なお、北尾根は手つかずで密林状態であるが、土塁や堀切などの遺構が残っている。


道 案 内
東海環状自動車道の可児御嵩インターを降りた最初の可児御嶽IC交差点で右折し国道21号バイパスに入る。西に400m程行った柿田交差点で左折し県道381号線に入り、南進し花フェスタ記念公園を越えて600m程の二野・羽崎交差点で左折する。県道84号線に入り2km程東進すると県道が左にカーブしその右手に可児市郷土歴史館があり、その駐車場に駐車する。県道84号線の対面の山裾に城址碑と説明板がある。そこが登城口である。

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背後の堀切               本丸背後の土橋と北の丸

 
本丸切岸と二の丸           枡形虎口北東方向

 
枡形虎口の西方向           枡形虎口の前

 
三の丸裾の横堀          枡形虎口内の井戸