大森城  No21214−03 (おおもりじょう)       

主郭の南西方向 東側の横堀

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 可児市大森
築城年 : 天文年間(1558〜70)
形  式 : 丘城
遺  構 : 空堀、堀切、竪堀、土塁、虎口、
訪城日 : 平成28年11月4日

歴   史

築城年代は定かではないが、永禄年間(1558〜1570)に久々利城主であった土岐悪五郎の家老・奥村又八郎によって築かれたと云われる。
永禄8年(1565)東濃に侵攻した織田信長は諸城を降し、森可成を金山城主に封じ、東濃平定の楔を打ち込むと、東濃の諸将は連合して叛旗を翻したが、結局は武力で圧服させられた。
元亀元年(1570)可成は近江国宇佐山合戦で討死し、その跡を長可が継いだが、天正10年(1582)信濃国川中島に転封となり、弟の蘭丸が金山城主となった。同年蘭丸は本能寺の変で信長とともに討死したため、それまで従っていた東濃の諸将は一斉に蜂起し、急きょ長可が川中島から戻り金山城主となり、付近の肥田、奥村、長谷川ら諸将の討伐を開始し、大森城も激戦の末落城し、又八郎は城を脱出し越前へ逃れ、その後前田利家に仕えたと云う。


構造と感想
大森城は、可児川の支流大森川左岸の河岸段丘上に築かれている。北東側が大手で大森神社境内が大手郭で、境内に大森城の説明板が建てられており、神社から西斜めに登ると5分も掛からず虎口に至る。城の南東側は宮洞、北西側は西ヶ洞が南西方向に食い込んでおり、南西側のみが丘陵に連なり搦手となる。
山上の南端頂部に主郭を置き、堀切を隔てた北側に二の郭、一段下がって三の郭が連なり、三の郭の東側には腰郭が付帯している。主郭の南西側にも堀切を隔て三角形の郭があり、その南西隅には櫓台が構えられ、背後の丘陵続きを堀切で遮断している。主郭から三の郭の東西両側には横堀が延び、非常に良く残っており見応えがある。また、各郭には分厚い土塁も廻らされている。

道 案 内
中央高速多治見インタを下りた多治見IC交差点で左折し国道248号に入る。北西に1.4km程走った多治見西高校前交差点で右折し県道83号線に入る。県道83号を北西に2.6km程走ると松阪町3交差点に至り、そこで右折し引き続き県道83号線を北上し2.2km程で大森新田交差点に至り、そこで左折する。西に2.3km程行くと左手に工場があり、そこのY字路で左斜めに進み、120m程で川を渡り、そこから20m程先で左折すると突き当りが大森神社で、神社背後の山が城跡である。鳥居の右手に駐車場がある。

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主郭と二の郭間の堀切と土橋        二の郭の北虎口

 
三の郭北西方向           腰郭の南方向