妻木城  No21212−01 (つまぎじょう)       

主郭北側の石垣 北より二の郭と主郭を見る

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 土岐市妻木町上郷
築城年 : 暦応2年(1339)
形  式 : 山城
遺  構 : 石垣、土塁、堀切、横堀、虎口、井戸、
訪城日 : 平成28年11月5日

歴   史

南北朝期の暦応2年(1339)に美濃国守護土岐頼貞の孫頼重(土岐明智氏、妻木氏の祖)が妻木郷を与えられ、妻木城を築いたと考えられている。その後、妻木郷は代々土岐明智氏が領有していたが、戦国時代に入ると没落し、代わって一族の妻木氏が妻木郷を領有した。
土岐明智氏と妻木氏は、初め土岐嫡流の守護家に従っていたが、土岐氏が没落すると斎藤氏に臣従し、そして織田信長が美濃を制圧すると、多くの東濃諸将と同じく信長に従い、金山城主森可成の麾下に入った。
天正10年(1582)本能寺の変に際し、妻木広忠(明智光秀の叔父)は光秀に従い、山崎の合戦で自刃したが、妻木氏の家名は存続し、織田信長の馬廻を務めていた子の貞徳は隠居して子の頼忠に家督を譲った。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに於いて、頼忠は東軍に属し、西軍に与した岩村城の田丸直昌の押さえとなり、土岐口などで田丸軍と戦いこれを敗り、この功により頼忠は徳川家康から妻木7500石を安堵され交代寄合格の旗本となった。これに伴い妻木城を廃して、その北麓に妻木陣屋(士屋敷)を構えた。
元和9年(1623)頼忠が没して頼俊が家督を継ぎ、承応元年(1652)には頼俊の子頼次が家督を継いだ。この時、弟幸広に五百石を分知し、頼次が七千石を引継いだが、万治元年(1658)頼次は嗣子なく没したため、家名は断絶となり、妻木陣屋も廃された。
万治2年(1659年)分家の幸広が妻木に所替えとなったが、どこを拠点としたのか明らかでない。


構造と感想

妻木城は、妻木川に沿って北に張り出した丘陵先端の標高407mの城山山頂に築かれており、北麓に妻木の町を見下している。
構造は、山頂に主郭と二の郭が構えられ、中央付近の東西方向に折れの入った石垣を積み、一段高い南側を主郭、北側を二の郭としている。主郭の北東隅と二の郭の北側に石垣造りの枡形虎口が設けられている。主郭の南西側に帯郭と帯郭の西下に伝蔵跡が付帯し、二の郭の北下に大手郭である三の郭を築いている。これらを取り巻き横堀が廻り、この横堀は南外側の南郭、西外側の伝伝御釜屋との堀切も兼ねている。伝御釜屋の南西には堀切で区画された伝太鼓櫓と三つの無名郭が続いている。伝御釜屋と伝蔵跡間の堀切を南に下がると土塁で囲まれた井戸跡も残っている。
三の郭からは見晴らしが素晴らしく、遺構は残存状況がよく、主郭や二の郭周辺の近世城郭とその外周部の中世城郭を同時に味わえる城跡である。また、北麓に妻木城士屋敷跡や妻木城の城門が近くの崇禅寺山門として移築され現存している。


道 案 内
中央高速道路の土岐インターを下りて国道21号の南方向に入る。530m程南下した大富交差点で右折し国道19号に入る。2.1km程先の泉池ノ上町交差点で左折し県道19号線に入り、県道を南に5.3km程走ると平成町5交差点で県道19号線が斜め右に折れるので、引き続き県道19号線を1.4km程走ると県道19号線が斜め左に折れるので、道なりに県道19号線へ入る。870m程先の妻木川に架かる旭橋東詰めを直進し、引き続き県道19号線を1.8km程走り「名岐国際ゴルフクラブ」入口へと右折する。120m程先でY字路を右手へ進み1km程上ると右手に池があり、池の西側の駐車場に停める。駐車場北側に案内板がある。そこが登城口である。
なお、旭橋東詰めで右折し橋を渡って500m程行った左手が妻木城士屋敷跡である。

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主郭の虎口                二の郭の虎口

 
三の郭からの眺望           伝御釜屋の土塁

 
井戸跡               帯郭の石垣

 
伝御釜屋と伝太鼓櫓間の堀切             東側の横堀