鉈尾山城  No21207−02 (なたおやまじょう)       

南側三段目郭の石垣 主郭北方向と城址碑

城郭の概要                  
別  名 : 上有知城、七尾城、藤城
所在地 : 美濃市古城山
築城年 : 天文9年(1540)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、石垣、虎口
訪城日 : 平成27年3月14日

歴   史
応仁の乱で佐藤三河守通信の子修理大夫宗信が戦功を挙げ、武儀郡を得て鉈尾山に築城した。また、天文9年(1540)佐藤六左衛門尉清信が築城した。或いは、一柳五郎四郎が天文年間(1532〜55)に住した等の伝承があり、鉈尾山城の築城時期は定かでない。
清信の子秀方は5千貫を領し、織田信長の配下として各地を転戦、元亀元年((1570)には金森長近の姉を娶っている。天正10年(1572)の本能寺の変後は、長近と共に羽柴秀吉に属して近江で戦い、天正13年(1585)飛騨の三木氏を討ち、一時飛騨萩原城に入っている。その後も転戦するが、文禄3年(1594)7月に没した。
秀方の後を継いだ子の方政も豊臣家臣として各地を転戦するが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で岐阜城城主織田秀信に従い西軍に加わり、岐阜城の攻防戦で敗れ、戦後に改易された。その領地であった上有知は長近に与えられ、長近は小倉山城を築き、鉈尾山城を廃城とした。

構造と感想
鉈尾山城は、標高437mの古城山山頂に築かれている。古城山は背後に長良川と板取川の広い流域を持ち、旧武儀郡中央の平野部北端に位置し、郡上郡の喉もとを占め、西方に美濃紙の一大生産地が控える軍事・経済上の要衝にあたる。
頂部に周囲の一部に石積みが見られる東西18m、南北36mの主郭を置き、。虎口が北東隅と北西隅に開き、スロープで下方の郭に下りられる。
山頂付近は岩盤が露出し、東西面は急斜面で、主郭から北と南に連郭式に2、3段の郭を配する縄張りで、東側の所々には帯郭が付帯している。
南の三段目は北側を除く三方に高さ1.5m程の石垣が築かれ、その東側石垣沿いを北に城内道が登り、二段目切岸裾に突き当たって左折して三段目の郭に入っており、ここが大手口と見られている。また、大手口の南側出口で西から谷が入り込み、城道が狭まり土橋状になっていて、二重の関門を形成している。また、北端の郭にも石垣が見られる。
しかし、石垣は稚拙で、隅部に算木積みは見られず、虎口や縄張りも単純で慶長期以前の遺構と思われている。

道 案 内
東海北陸高速道の美濃インターで下りて直ぐの美濃IC口交差点を右折し県道94号線へ入る。東に450m程行った下松森交差点を左折し国道156号線に入り、北の郡上方面に2.5km行った和泉交差点で左折する。さらに国道156号を510m程行った消防署を過ぎて直ぐのY字路で右手に入る。道なりに470m程で美濃運動公園の入口に至る。
運動公園に入るとグランド手前右に古城山の案内板があり、そこを右手に進むと大手道側の登山口に至る。まっすぐ行った車止めのところから入ると搦め手側からの登山口です。

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 現地の縄張り図          小倉山城を望む