霞ヶ城  No20361−04 (かすみがじょう)       

居館跡 八幡社(櫓台跡)

城郭の概要                  
別  名 : 手塚城
所在地 : 諏訪郡下諏訪町
築城年 : 治承年間
形  式 : 居館
遺  構 :
訪城日 : 平成30年10月27日

歴   史
築城年代は定かではないが、治承年間(1177〜81年)に手塚光盛(金刺光盛とも云う。)によって築かれたと云われる。
金刺氏は諏訪大社下社の神官を代々務める一族で、金刺宿禰貞継の代に諏訪大社下社の大祝となった。平安時代後期に武士化し、前九年の役(1051年)の頃には族党を結束して神家党と呼ぶ武士団に成長していた。
金刺光盛は源義仲の挙兵に従い、寿永2年(1183)の加賀篠原の戦いで、敗走する平家方の中で一人踏みとどまり奮戦する斎藤実盛を壮絶な一騎打ちの末に討ち取ったことが「平家物語」に記されている。
文明年間(1469〜87年)頃になると諏訪氏は惣領家と大祝家による内訌が激化。文明15年(1483)上社大祝の継満が諏訪惣領家の政満と嫡子宮若丸を上社の神殿に招き饗応中に不意をついて謀殺し、祭政二権を得ようとした。これに呼応するように下社の金刺興春が挙兵し、高島城(茶臼山城)を占領し、桑原・武津に放火して上社を攻めた。
しかし、上社方の矢崎・千野・小坂・福島らと宮の腰で戦い金刺興春は討たれ、下社の社殿を焼かれるなど大敗を喫した。
その後、興春の子盛昌、昌春と続くが、永正15年(1518)上社大祝の諏訪頼満によって荻倉の要害(山吹城)を攻められ自落し、金刺昌春は武田信虎を頼って甲斐へと落ち延びた。

構造と感想
霞ヶ城は、諏訪大社下社秋宮の南側に位置する山王台に築かれていた。その山王台は、かつてホテル山王閣の敷地となっていた事もあり、改変が著しく明確な遺構は残っていない。
しかし、山王台は台地の先端に位置し、南側から西側にかけては急斜面となっており、下諏訪の町を一望でき、居館に相応しい立地である。
なお、八幡社の小山とかつてのホテル山王閣敷地との間に堀切状の道路(両区画は元々一体であったとのこと。)が通っており、それを背にして案内板と手塚光盛の像が設置されている。

道 案 内
諏訪大社下社秋宮の南側。

TOPへ 戻る


  「切岸」と「神宮寺の独鈷水(右側中程の東屋)」