高島城  No20206-01 (たかしまじょう)       

復原天守 復元角櫓と天守

城郭の概要                  
別  名 : 諏訪の浮城、島崎城、
所在地 : 諏訪市高島
築城年 : 文禄元年(1592)
形  式 : 平城(水城)
遺  構 : 石垣、堀、移築門、復元天守・櫓・城門、
訪城日 : 平成30年10月27日

歴   史
天文11年(1542)諏訪地方を支配していた諏訪頼重は、武田晴信に攻められ降伏、甲府で自害させられた。これにより諏訪氏惣領家は滅亡したが、天正10年(1582)織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏が滅び、同年6月には本能寺の変で織田信長も斃れると、諏訪氏の旧臣千野氏らに擁立されて従兄の頼忠が織田家臣の河尻秀隆の郡代・弓削重蔵を駆逐、諏訪氏の旧領を回復して惣領家を継いだ。そして金子城(諏訪市中洲)を築き拠点とした。
しかし、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原城の北条氏を攻略して天下を統一すると、頼忠は徳川家康の関東転封に従って武蔵国奈良梨に移り、秀吉家臣の日根野高吉が2万7千石で茶臼山城(高島古城)に入城した。
文禄元年(1592)高吉は、諏訪湖畔に築城を開始し、慶長3年(1598)までの7年をかけて完成させた。これが高島城である。
高島城は、諏訪湖と数条の河川が周囲をめぐって濠の役割を果たし、湖水が石垣に迫り、城が湖上に浮いて見えたことから別名「諏訪の浮城」と呼ばれ、威風を誇った。
慶長5年(1600)関ケ原の合戦で頼忠の嫡男・頼水は家康に属し、翌慶長6年(1601)2万7千石で旧領諏訪に復帰し高島城主となった。以後、諏訪氏は先祖伝来の地を離れることなく、10代藩主忠礼に至るまでの270年間、高島城を居城とし、諏訪を治めた。
明治4年(1871)廃藩置県となり城郭の撤去が決定され、明治8年(1875)までに天守等の建物が撤去され、翌明治9年本丸跡が「高島公園」として一般に開放された。

構造と感想
城の北側には城下町(兼甲州道中上諏訪宿)が設けられ、城下町から城までは一本の道のみで結ばれた。
城は、北から衣之渡郭、三之丸、二之丸、本丸が一直線に並ぶ「連郭式平城」で、各郭は諏訪湖と数条の河川に囲まれ、水を守りとする「水城」で、松江城(出雲国)や膳所城(近江国)と並ぶ「三大湖城」のひとつとされている。が、江戸時代初めに干拓が行われたため、現在では水城の面影は失われ、また、旧状を留めるのは本丸跡のみで、他は住宅地化してしまっている。
本丸の北西隅には三重五層の独立式望楼型天守が建てられ、天守をはじめ主要な建物の屋根は寒冷地であるため、瓦葺きではなく杮葺きで葺かれていた。
築城当時の石垣は、大木で組んだ筏状の井桁の上に自然石を加工せずに積み上げた「野面積み」であったが、天明6年(1786)の大掛かりな補修によって大部分が整備し直され、築城当時のまま残る石垣はごく一部のようである。
昭和45年、本丸跡に三層の天守、二層の角櫓、冠木門などが復元され、往時の高島城の雄姿を偲ぶことができる。天守からは諏訪湖や市街地、周囲の山々を一望できる。
昭和63年には藩主の別邸であった三之丸御殿の裏門が、かつて御川渡御門と呼ばれた門のあった場所に移築された。この門の城外は諏訪湖で、ここから舟に乗ることができた。

道 案 内
諏訪市市役所の西隣が「高島公園」で本丸跡である。

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絵図                高島公園            絵図

 
復元冠木門            復原冠木門と角櫓

 
角櫓              移築の三之丸御殿裏門

 
天守より東方向の眺望   本丸御殿跡