真田氏居館  No20345-01 (さなだしきょかん)       

大手口の枡形と土塁の腰巻石垣 厩跡と土塁

城郭の概要                  
別  名 : 御屋敷、真田氏館
所在地 : 上田市真田町本原字御屋敷2984-1
築城年 : 天正年間(1573〜92)
形  式 : 居館
遺  構 : 土塁、堀、石垣、虎口、庭園跡
訪城日 : 平成23年6月5日

歴   史
真田幸隆の嫡男・信綱が天正年間(1573〜92)に築いたと伝わるが、それ以前に幸隆が居住していたとも云われる。
天文10年(1541)武田信虎、諏訪頼重、村上義清が連合して海野平に攻め入ると、滋野一族は抵抗したが敗れ、一族の頭領である海野棟綱やその子(孫、娘婿とも)真田幸隆らは上州吾妻へ落ち延びた。その身柄は長野業政に預けられ箕輪城内に居住したが、天文10年代幸隆は箕輪城を出て、信虎を駿河に追って甲斐国主となった武田晴信(のちの信玄)に臣従し、信州先方衆として戦功を挙げるとともに、佐久・小県・北信濃の血縁者をはじめとする在地土豪の懐柔に勤め、晴信の信濃侵攻を助けた。
天文17年(1548)の上田原合戦、天文19年(1550)年の戸石城攻めで、武田軍は村上義清に大敗北を喫したが、それでも幸隆は晴信に従い、翌天文21年(1551)には自力で戸石城を確保し、晴信より小県周辺の旧領を与えられ、戸石城も預けられた。
真田氏居館は、旧領を回復した頃から幸隆が没する天正2年(1574)までの間に、平時の居館として構築されたと推定されている。
幸隆の後は信綱が嗣いだが、信綱は天正3年(1575)の長篠合戦で弟・昌輝と共に討ち死にし、真田家の家督は幸隆の三男で武藤家を嗣いでいた武藤喜兵衛(真田昌幸)が継承した。天正10年(1582)武田氏が滅亡し、その後、昌幸は織田の武将・滝川一益、北条氏政、徳川家康、上杉景勝とめまぐるしく主君を変えている。
天正11年(1583)家康の支援を得て上田城の築城を開始、天正13年(1585)に移り、館跡には皇太神社を建立し献納したとされる。

構造と感想

真田氏居館は、真田本城から南西約800m、東西に長い梯形をした一画で、地元では「御屋敷」と呼ばれている。
北東に真田本城、東に天白城、北に神川を隔てて横尾城・洗馬城、西方に戸石城と周囲に諸城を構築し、守りを固めた要害の地に構えられていた。
東西150〜160m、南北100〜130mで、郭内は東から西へ緩やかに傾斜しており、二段に区画されている。四囲には分厚い土塁を廻らし、特に東側が4m、5mと高い。南東隅の土塁は内側に折れ曲がって角を欠いている。対角の北西隅には土塁で囲った厩跡と呼ばれる一郭がある。虎口は、南側に大手口があり、土塁の両脇を石積みで固め、内枡形も残る。北側が搦手口で土塁の両脇を石積みで固めるが、枡形はなく、前面は巾の広い堀となっている。角欠けとなっている南東隅にも東口が開いていた。
真田氏の居館は、角間、甲石などにもあったとされるが、遺構が現存しているものは当館だけで、中世豪族の館跡として貴重な史跡である。


道 案 内
上信越自動車道の上田菅平インタを降りて国道144号の東方向に入る。700m程先で上信越自動車道を潜り、さらに国道144号を道なりに900m程行った伊勢山交差点を直進する。そこから2.9km程道なりに北上した荒井交差点で右折し県道35号線に入る。県道35号線を道なりに1.9km程南進した真田氏歴史館の西隣が館跡の「御屋敷公園」である。無料駐車場が有。

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北側の堀跡                 大手口脇の石積み