替佐城  No20211-02 (かえさじょう)       

一・二郭間の堀切 二郭北面の腰郭

城郭の概要                  
別  名 : 対面城
所在地 : 中野市豊津845
築城年 : 永禄7年(1564)頃
形  式 : 山城
遺  構 : 堀切、横堀、竪堀、
訪城日 : 平成26年10月26日

歴   史
替佐城は、永禄7年(1564)頃に築かれたと推定されている。北信濃の制圧を目指す甲斐の武田勢とその防衛をかはる越後の上杉勢が川中島平で激しく争った当時、武田方の前進基地として重要な役割を果たした。
この城は上杉方の拠点である飯山城へ通じる谷街道(千曲川通り)を東岸から押さえる壁田城と共に西側から押さえるもので、また、北永江方面を経て上杉方の国境の野尻城へも備えていた。壁田城は永禄9年(1566)に武田方が攻略しており、替佐城がその拠点であった。
なお、地元には小幡上野介が城将であったと伝わり、今も替佐集落には甲州系の姓が多い様である。

構造と感想
替佐城は、千曲川の左岸で、長岡丘陵と米山山塊の間を千曲川が蛇行して流れる所で、替佐集落の背後に南東に向け半島状に突き出した山尾根の先端部に築かれている。
構造は、尾根続きを大小4条の堀切で遮断し、西端の最高所に主郭を構え、南東側に二郭、三郭を堀切で区画して連ねている。どの郭にも土塁は付帯しておらず、削平地のみである。主郭の周囲に帯郭、北側から西側のもう一段下に腰郭を、南側には4段の段郭を設けている。二郭は中央がやや高く二段からなり、北側に腰郭を付帯させている。三郭は南側から東側を二段の帯郭が取り巻いている。
主郭の北斜面や三郭の東と南の斜面には畝状竪堀が入っており、三郭の竪堀下には弧状に長大な横堀が築かれている。また、二郭から東へ分かれた尾根の山腹に雛壇状に細長い平坦地を連ね、最下段は巾20m、長さ100mの馬場と呼ばれる長い壇が設けられており、大手とされるが、草ボウボウで下りる気にならなかった。

道 案 内
上信越自動車道の信州中野インターを降りた信州中野IC入口交差点を直進し1.4km程先のランプを降りる。降りた所の浜津ヶ池入口交差点で左折し県道505号線に入る。北に730m程で千曲川の上今井橋を渡り、さらに870m程道なりに進み国道117号との上今井交差点に至る。この交差点を右折し国道117号に入り、北に1.3km程行った右手の「豊井小学校」を越えたT字路で左折する(道路に城址公園の案内が出ている)。280m程西進して上信越自動車道を潜り、直ぐの右手へ入る道へ右折する。100m程先でUターンするように左折し、20m先で右手の斜め方向に進み、その道の突き当りが替佐城公園の駐車場である。

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          一・二郭間の堀切と竪堀