春日城  No20209−11 (かすがじょう)       

主郭北側の土塁 主郭北西隅の堀

城郭の概要                  
別  名 : 伊那部城
所在地 : 伊那市西町(春日公園)
築城年 : 天文3年
形  式 : 平山城
遺  構 : 土塁、堀、
訪城日 : 平成30年3月18日

歴   史
天文3年(1534)に伊那部大和守重慶によって築かれたと云われる。大和守は在名を氏としていたが、本姓は春日であり、城は春日城と呼ばれた。
重慶は、平家の末流で粟田口民部重吉の16代の孫で、三百貫を領して十騎の将であった。重慶の後は、但馬守重成が継ぎ、更に長子の左衛門尉重親が継いだ。また、重成の次男 重国は殿島に所領を宛がわれ殿島氏を称し殿島城に居住した。
弘治2年(1556)重親や重国をはじめとする上伊那衆は、上杉謙信に通じ武田氏に謀反を起こしたが、武田勢の攻撃を受けて捕縛され、狐島で磔にされた。春日城主には、新たに春日河内守昌吉がなった。
天正10年(1582)織田信長が信濃に侵攻すると、春日河内守昌吉は高遠城主 仁科盛信に応じて高遠城に籠もり奮戦したが、盛信とともに討死、高遠城の支城として機能していた春日城も落城し、廃城となった。

構造と感想
春日城は、天竜川西の河岸段丘に上に築かれ、西側が台地続きで、東側は段丘壁、北側と南側は自然の沢で、堀の役目を果たしている天然の要害地形である。
台地先端の南西隅に広さ50m×47mの主郭を置き、北側と西側を土塁と上幅25mの深い堀で区画し、南一段下に腰郭を付帯させている。主郭を囲むように北側から西側をL字型の二郭が配されている。二郭の東おおよそ50m四方が一段低く、西側の上段部の北側と西側には土塁も残っている。二郭の西側を上幅14mの堀で区画し、現在はグランドになっている三郭を設けていた。「箕輪記」などによると三郭の西側にも堀があったようであるが現在は残存しない。
地形を巧みに利用した堅固な構えは見事で、残存する遺構だけでも満足できる城跡である。

道 案 内
中央道の小黒川スマートインターを下りて直ぐのT字路を右折し市道に入る。東進して初めての信号交差点である「陸上競技場西」を右折、南に230m程行くと市民体育館西交差点である。そこで左折し県道202号線に入り東に500m程行くと右手に伊那文化会館がある。その北東角で右折し200m程緩やかな坂道を下ると道の両側に駐車場があり、右手側の台地上が春日公園で城跡である。

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主郭北側の堀       主郭西側の堀


主郭の南東方向         主郭の腰郭


南アルプスを望む眺望        二郭東部の東方向


二郭西部の南方向       二郭西側の土塁と堀