室賀城  No20203-01 (むろがじょう)       

主郭 主郭背後の堀切

城郭の概要                  
別  名 : 笹洞城、原畑城
所在地 : 上田市上室賀字下洞山
築城年 :
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、石垣、
訪城日 : 平成23年6月4日

歴   史
築城年代は定かではないが、室賀氏によって築かれたと云われる。
室賀氏は、鎌倉時代初期にこの地に土着した国人とされるが確か所は不明である。戦国時代には北信濃で6郡を支配した有力国人の村上義清に属していた。その義清は、北信濃に侵攻してきた甲斐の武田晴信(信玄)を天文17年(1548)と同19年(1550)の二度に亘り討ち破ったが、天文20年(1551)武田方の国人・真田幸隆に戸石城を落とされ、これを契機に室賀氏をはじめとする村上方の諸将が晴信に寝返り、天文22年(1553)義清は越後の長尾景虎を頼り落ち延びた。以後、室賀氏は武田氏に従ったが、天正10年(1582)武田氏が滅亡すると織田氏、徳川氏に従った。
しかし、天正11年(1583)北条氏に属した真田昌幸に攻められ、一旦は和睦となったが、翌天正12年(1584)当主の室賀正武が上田城内で謀殺され、室賀一族は離散、室賀城は廃城になったと伝えられる。
なお、室賀一族の源十郎が徳川氏に仕え、旗本となり幕末まで存続した。

構造と感想
室賀城は、上田市西部に所在する上室賀の西側に東西に伸びた尾根のピーク(標高693m)に築かれている。東麓には室賀峠を越えて坂城へ通じる室賀道が通り、それを押さえる城として重視された。
構造は、頂部に主郭を置き、南1m下に三角形の張り出しが付帯し、さらに南8m下に細長い腰郭が付帯し、石祠がある。これら主郭部の西側から南側には石積みが残り、高いものは10段ほど平積みにしてある。主郭西の尾根続きには3条の堀切が入れられ、最初の堀切は10mもの高低差がある。主郭の東下17mに二の郭が配され、北斜面には長大な竪堀が下っている。二の郭東側にも堀切が入れられ、上巾は15mで当城で最大の規模とされる。この下方に数段の郭が連なり、北から東側斜面に5本程の竪堀の痕跡が認められ、比高の小さい北側へ防御の中心を置いている。また、主郭南下の支尾根にも5、6段の郭が連なり、先は自然地形となっている。この支尾根先端の裾には居館である原畑城がある。
城の規模は小さいが、多用された石積みや鋭く落ち込む堀切など見ごたえのある山城である。

道 案 内

上信越自動車道の上田菅平インターを降りて国道144号の西方向に入る。国道144号を910m程西進した住吉交差点で右折し国道18号バイパスに入る。バイパスを道なりに5.4km程行った上塩尻交差点を直進し千曲川を渡る。渡り終えて420m程進んだ下之条北交差点で左折し、築地バイパスに入り1.9km程南下した宮島交差点で右折する。国道143号線に入り西に2.1km程行き小泉交差点で右折し県道160号線に入る。県道160号線を北西に4.4km程行った原組バス停先のY字路で左手に進む。260m程先の室賀温泉バス停の所で右折し川沿いを320m程入った十字路で左折すると突き当たりが室賀水上神社で鳥居の左手から登り道がある。10分程登って尾根に着き、右手(東尾根)の壕道をを登っていくと城跡に至る。


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副郭側面の石垣           二の郭の北西斜面の竪堀