谷戸城  No19406−01 (やとじょう)       

主郭の北方向 二郭の土塁と内空堀

城郭の概要                  
別  名 : 茶臼山
所在地 : 北杜市(北巨摩郡)大泉町谷戸
築城年 : 平安時代末期
形  式 : 平山城 山城
遺  構 : 土塁、横堀、土橋 土塁、空堀、
訪城日 : 平成22年11月22日

歴   史
谷戸城は、平安時代末期に甲斐源氏の祖とされる逸見清光によって築かれたとされる。
源義光の子義清が、常陸国武田郷を領して武田冠者を称したが、大治5年(1130)子・清光が武田郷と隣郷の境界を巡り紛争を起こし、平清幹の嫡男である常陸の在庁官人・大掾盛幹と敵対、義清・清光父子はこの抗争に敗れ、天承元年(1131)勅勘を蒙って甲斐国市河荘へ配流となった。その後、義清・清光父子は八ヶ岳山麓の大八幡・熱那・多摩の三荘を掌握し、逸見一帯に勢力を伸ばし、清光の子孫が甲斐各地に分封され、甲斐源氏が甲斐国内の主導権を握って行くことになる。
戦国時代の谷戸城は、棒道(信玄の軍道)の中継地点となり、また、天正10年(1582)武田氏が滅亡した後に起こった天正壬午の乱では、北条氏直が信濃より甲斐に侵入し、新府城に入った徳川家康と対峙した際に、谷戸城は若神子城などと共に北条方の拠点となった。

構造と感想
谷戸城は八ヶ岳山麓の緩やかな尾根状の先端に位置し、山容は緩く要害とは云えない小山であるが、東衣川と西衣川に挟まれ、北は二重堀切で断ち切って、防備を固めている。
構造は、山頂を土塁をめぐらした主郭とし、一段下の主郭を取り巻く二郭にも土塁をめぐらしている。この土塁は掻き揚げて構築されたと思われ、土塁の内側が空堀状に窪んでいる。
更に、二郭の北から東側に土塁を伴った帯郭が、帯郭かわ北と東側に張り出した斜面には、1、2段の段郭を設けている。その下方裾に横堀が設けられ、南端には竪堀を落とし、北端は内堀切となっている。二郭下の西から南側の斜面には二段の細い帯郭がめっている。そして北西裾は大手郭となっている。虎口は、主郭の東と南側、二郭の西側に平入り虎口が設けられている
訪城は容易であり、城跡の整備は行き届いており、案内板も掲げられており、土塁や空堀、土橋などしっかりした遺構を見ることが出来る。

道 案 内
中央自動車道の長坂インターを下りた長坂IC入口交差点で左折し県道32号線に入る。560m程東進した五町田交差点左折して県道28号線に入る。北に3.3km程行ったローソンのある若林交差点で左折し県道608号線に入る。西に1.7km程行ったJA梨北のある交差点で左折する。細い道に入り450m程南下すると右手が北杜市考古資料館折で前方の小山が城跡である。

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北斜面の帯郭と段郭          北端の堀切