若神子城  No19403−01 (わかみこじょう)       

主郭の西側土塁 主郭の南側堀切

城郭の概要                  
別  名 : 若神子古城、大城
所在地 : 北杜市(北巨摩郡)須玉町若神子
築城年 : 不明
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、空堀、
訪城日 : 平成22年11月22日

歴   史
若神子城は、後三年の役(1083〜87)平定後、甲斐守に任ぜられた源義家の三男・新羅三郎義光の甲斐守在任中の居館と伝えられるものの、伝説の域を出ないとされ、築城年代や築城者については定かでない。
戦国期には、武田信玄が信濃へ進出するにあたり、佐久往還の戦略的要地に位置する若神子城を度々経由した。天正10年(1582)武田氏滅亡後、甲斐は織田信長の家臣・川尻秀隆が入部したが、同年、本能寺の変で信長が斃れると甲斐国人一揆が蜂起し、秀隆はこれに討たれ、その旧領を巡って徳川家康と北条氏直による争奪戦を展開した(天正壬午の乱)。この際、北条氏直は北から南下し若神子城に本陣を置くと、徳川家康は新府城を修築し本陣とし、三カ月近くに亘り対峙した後、和議となり、まもなく若神子城は廃城となった。

構造と感想
若神子城は、佐久往還の難所であった小手指坂から南に延びる細尾根の先端部に築かれている。須玉川西岸背後に迫る丘陵部の一支尾根である。
城跡は、「須玉町ふるさと公園」として整備され、北端部を除き旧状を留めない。その公園部には生垣に囲まれ芝が張られた薬研堀が保存されている。北端部は、僅かながら背後を空堀で遮断し、四囲に土塁を廻らした主郭が残っていた。遺構は明瞭性やシャープさ欠け、物足りなさを感じる城跡である。

道 案 内
中央自動車道の須玉インターを下りた須玉インター入口交差点で右折し国道141号に入る。国道141号を2.3km程北上した西川橋西詰交差点で左折し県道28号に入り、北へ340m程行くと旧道への分岐があり、そこで左折して旧道に入る。直ぐにUターンするように南へ向かい、またその先でUターンするように北へ向かい最初の左折の道へ入る。そこが「ふるさと公園」で城跡である。公園に広い駐車場がある。

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薬研堀遺構