成願寺城  No18201−03 (じょうがんじじょう)       

次郎丸の郭 畝状竪堀

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 福井市成願寺町
築城年 : 戦国期
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、土橋、竪堀
訪城日 : 平成23年10月21日

歴   史
築城年代は定かではないが、『朝倉始末記』に「成願寺 一乗三ノ丸 前波 此城代なり」と記されており、朝倉氏重臣の前波九郎兵衛が城主であったことが分かる。また、「大味 中嶋但馬守 一乗二ノ丸なり」との記述もあり、成願寺城を一乗谷城の三ノ丸に、大味城(槇山城)を二ノ丸に位置付けており、この二城は一乗谷の西方、福井平野側からの攻撃に備えた重要な支城であった。
前波氏は代々一乗谷奉行人として朝倉政権の中枢を担ってきたが、元亀3年(1572)織田信長の越前侵攻に際し、九郎兵衛は朝倉氏を最初に裏切り織田氏に寝返り、さらに侵攻の案内役を買って出たとされる。そして、この裏切りの功績をもって九郎兵衛は越前守護代に任じられ、名前も桂田播磨守長俊と改め、一乗谷城主となった。
しかし、天正2年(1574)一向一揆が起こり、一揆勢の富田弥六に敗れ、自刃して敢無い最期を遂げた。その後、成願寺城も廃城になったと推測される。

構造と感想
成願寺城は、朝倉氏の本拠である一乗谷から北北西に約4kmに位置し、足羽川を挟んだ南約3kmには東郷槇山城が構えられており、一乗谷の西方を護る最後の防御線であったことが分かる。
構造は、標高214mの次郎丸を中心に東西約700mにわたって尾根筋に40近い郭が並んだ連郭式の山城で、各郭間は堀切で区切られ土橋で結ばれている。一部には畝状竪堀も入れられている。
次郎丸の南側谷筋には養老年間(717〜23)に泰澄大師により開かれ、天正2年(1574)に一向一揆により焼き払われた波着寺跡がある。
現在、城跡も寺院跡も余り手が入っておらず、城域の一部が巡れる程度である。

道 案 内
北陸自動車道の福井インターを降りて国道158号へ南東方向の大野方面に向け入る。1.5km程先が荒木新保交差点で、その先630m程の成願寺口バス停のある信号交差点で左折し集落に向かう。350m程先の左手が成願寺ふれあい会館で会館駐車場を借用する。会館前の波着寺(なみつきでら)縁起説明板で道順を確かめ、波着寺跡を経由して城跡に至る。

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                    お清水跡

 
堀切                 土橋


波着寺本堂跡            波着観音堂跡