東郷槇山城  No18201−02 (とうごうまきやまじょう)       

城台の長谷川秀一顕彰碑 大土塁外の堀切

城郭の概要                  
別  名 : 大味城
所在地 : 福井市小安町
築城年 : 応永年間(1394〜1428)
形  式 : 山城
遺  構 : 空堀、土塁、石垣
訪城日 : 平成23年10月22日

歴   史

槇山城は、越前朝倉氏三代氏景の二男で一条家の荘園である東郷荘の庄官となった正景が、応永年間(1394-1428)頃に築城したと考えられている。
文明3年(1471)頃、朝倉宗家の本拠が一乗谷に移ってからは、その支城としての役割を担うようになった。
しかし、朝倉氏は天正元年(1573)織田信長に攻め滅ばされ、越前国の支配は柴田勝家に任されたが、その勝家も天正11年(1583)羽柴秀吉に滅ぼされ、槇山城は越前の大半を与えられた丹羽長秀の持ち城となった。
天正12年(1584)には長谷川秀一が11万石で槇山城主となり、翌年に拡張改修を行った。文禄3年(1594)秀一は文禄の役のため朝鮮に出陣中に病没し、東郷は再び丹羽氏の所領となり、丹羽長昌が15万石で槇山城主となった。
長昌は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで大谷吉継に与して西軍に属したため改易となり、槇山城も廃城となった。


構造と感想

東郷槇山城は、一乗谷城の北西約2.2kmに所在する標高122mの城山に築かれており、三峰城、成願寺城、中山城と共に一乗谷城の支城群の一つである。
南北に延びる一乗谷の西側に連なる峰筋の北部から北西に張り出したのが城山で、下城戸の西方に位置しており、西側からの攻撃に備える出城と考えられる。
城域は鞍部を隔て南と北に分かれており、北が朝倉氏時代、南が長谷川氏時代のものとされる。長谷川氏時代の城域は公園として整備され、二の丸が駐車場となっており、そこまで車で登れて手軽に訪城できる。
構造は、城山の頂部で城台と呼ばれている所が本丸である。その南下に二の丸、さらに南に一段高い方形の千畳敷が連なり、千畳敷の南側は巨大な土塁と堀切が設けられている。その先にも三条の堀切が入っているようである。
遺構は公園化による改変や、遺構上に林道が敷設され、本来の姿がやや失われた感がある。
なお、朝倉氏時代の北城は、鞍部の西下にある三社神社から谷間の遊歩道を登り、鞍部に出て北に向かえば北城に、南に行くと長谷川氏時代の城域に至るようである。


道 案 内
北陸自動車道の福井インターを降りて国道158号の南東方向に入る。大野方面に向って3.3km行った天神交差点で右折し県道31号線に入る。200m程行って足羽川を渡り、少し先の突き当りで右折し県道32号線に入る。県道32号線を1.4km程道なりに進むと右側が遊歩道になり、その90m程先で県道180号線との分岐交差点があり左折する。引き続き県道32号線を進み340m程行った左手に白山神社があり、槇山城への道路案内標識が建てられている。案内に従い左折し林道を950m程登れば二の丸の駐車場に至る。

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  千畳敷の大土塁           城台南西隅の石垣