大松山城  No33209−02 (おおまつやまじょう)       

大松山の本丸 大池

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 高梁市内山下
築城年 : 仁治元年(1240)
形  式 : 山城
遺  構 : 石垣、土塁、空堀、堀切、井戸、大池、
訪城日 : 平成22年3月22日

歴   史
承久の乱(1221)後に相模国から有漢郷の地頭に入部した秋庭三郎重信が、仁治元年(1240)に大松山に居城を構えたのが始まりとされ、秋葉氏5代の後、正慶元年(元弘2年、1332)頃には備後・三好氏の一族である高橋九郎左衛門宗康が入城し、小松山まで城域を拡張し、城名を高梁城から松山城に改めたと云われている。その後、文和4年(正平10年、1355)から貞治元年(正平17年、1362)の間は、備中守護として高越後守師秀が在城したが、城代の秋葉三郎信盛に追放され、信盛が備中の守護代におさまり在城した。永正6年(1509)から天正2年(1574)の約65年間は、上野信孝−庄為資−三村家親−再び庄氏−そして三村家親の子・元親と城主が次々に交代した。
三村元親は、元亀2年(1571)毛利氏の援軍を得て、庄氏を倒し、鶴首城より松山城に移り、ほぼ現在の城域に拡張・整備したと考えられている。しかし、天正2年(1571)毛利氏が宇喜多氏と和睦した事から三村氏は織田氏と結んだため、天正3年(1572)に毛利氏に攻められ滅亡、城は毛利氏の備中支配の拠点となった。天正11年(1583)の領国境目交渉で高梁川以東は羽柴、宇喜多側に割譲されたが、松山城だけは毛利領に残った。
しかし、慶長5年(1600)の関が原の戦で毛利氏は西軍についたため、防長二国以外を没収され、松山城には徳川幕府の代官として小堀正津・政一(遠州)が入城した。この時から近世城郭化の改修が始められ、前山から小松山までがその城域となり、天神丸より北は中世城郭のまま残されることとなった。

構造と感想
大松山城は、中世城郭で臥牛山の大松山、天神丸の二つのピークを中心に遺構が残っている。中世段階には天神丸の南に続く小松山や前山にも城域が広がっていたが、小松山より南は近世城郭(備中松山城)へと改修されている。
構造は、北端の大松山の東西に延びる尾根筋に東から本丸、二の丸、三の丸が同じ高さで並ぶ連郭式で、郭間は浅い堀切で仕切られている。本丸と二の丸間から南東下方へ緩やかに続く傾斜地には、数段の段郭が設けられ、中段付近に石積み井戸が残っている。この傾斜地の入口付近に「大松山城」の城址碑が立てられている。三の丸の西側には、三段の腰郭が付帯している。
本丸と南東側の天神丸の間は鞍部で、「大池」と呼ばれる周囲が石垣造りの大規模な貯水池が設けられており、近世城郭の水の手とされる。
天神丸の頂部に三段築成の出丸を構え、北斜面には数段の腰郭を付帯させ、その先は大池である。出丸の南側は、城道を兼ねた大堀切で遮断と共に東西を繋いでいる。大堀切の南側は、堀際に櫓台状の高い土塁を伴った郭を構え、南下にも二段の郭が続いている。この東裾を石垣で保護された城道が大堀切に向かって登っている。
天神丸から南東に張出す支尾根が相畑地区で、城道の東側に低い石垣で区画された広い郭が連なり、井戸や礎石が残っている。相畑地区から大池までの間には、礎石や大池など近世城郭の一部として機能した痕跡が散見される。
左手に相畑地区を見ながら城道を南に少し戻ると橋台が石垣造りの橋に至る。この先が近世城郭である。
小なりとも一国を支配した戦国大名の居城だけあって、広大な城域、峻嶮な山城を実感できる城跡である。
 
本丸南西下方の井戸跡        天神丸の堀切   

道 案 内
岡山道の賀陽インターを下り国道484号の西方向に入る。国道484号を道なりに12.3km程行った高梁警察署北交差点で右折し、国道180号へ入る。2.1km程北上した川端町交差点で右折し、70m程先で右折、30m程先で左折し、あとは案内板に従って道なりに山へ登っていき、ふいご峠駐車場まで車で上がれる。そこから15分も歩けば松山城跡で、北端の水の手門から北に向かう遊歩道を入って行けば大松山城跡に至る。
土・日・祝は、手前の城見橋公園駐車場までしか自家用車は入れません。そこから先は、バスに乗り換えです。

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相畑地区の城道      大松山三の丸の腰郭