経山城  No33208−01 (きょうやまじょう)       

北虎口の石塁 南端の堀切

城郭の概要                  
別  名 : 京山城
所在地 : 総社市黒尾(経山)
築城年 : 天文年間(1532-55)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、桝形虎口、石垣、畝状竪堀、
訪城日 : 平成22年3月22日

歴   史
経山城は、天文年間(1532〜55)に大内義隆によって築かれたと云われている。
天文12年(1543)大内義隆が出雲富田城に尼子経久を攻めた時、備中の諸将も従軍して守備が手薄となった備中の城々に対して、播磨白旗城主・赤松晴政が浦上宗景・宇喜多興家を進攻させ、経山城攻めの陣を構えていた時、将軍足利義晴から細川氏綱・三好長慶追伐の命が下り、陣を引き払っている。
この後、毛利氏の所領となって、元亀年間(1570〜73)には小早川隆景が城を修築して、領国東辺の押さえとして、配下の二階堂近江守氏行や中島大炊介元行らを城代に入れている。
元亀2年(1571)には尼子軍が経山城を包囲するが、城将中島大炊助元行は小勢であったが、激しい風雨の夜に尼子陣に忍び込み火を放ったため、不意打ちに遭った尼子軍は多くの兵を失い佐井田城に退いた。
天正10年(1582)備中高松城をめぐる毛利・羽柴氏間の攻防戦の和睦により、この地は宇喜多氏の所領となり延原土佐守に与えられ、この時に廃城になったと考えられている。
  
  鬼ノ山城を望む     主郭の礫石垣と二ノ壇

構造と感想

経山城は、吉備高原南端の標高372.6mの経山山頂に築かれている。城跡からは、北に古代朝鮮式山城である鬼ノ城や南眼下に総社平野を一望することができる。
構造は、「回字型」単郭の変形とされ、山頂頂部に方形の主郭を構え、西から南側を礫石積みで固め、北側は土塁から切岸で落し、東側は浅い空堀と低い石塁で区画している。石塁の東側には、同じ高さの中ノ郭、東ノ郭が続いている。主郭の南と西側には、段状に下がって二段の帯曲輪(二ノ壇、三ノ壇)が付帯し、その基底部にも礫石積みが施されている。三ノ壇の西部の南半分に空堀と土塁の遺構が残り、また、南西隅に6m×4mの桝形虎口が開いている。南端の下方に小規模な堀切を設け遮断している。三ノ壇から東ノ郭の掛けての東側に帯郭が延びている。
中ノ郭と東ノ郭の北側には、僅かの段差で三つに区画された北ノ郭が続き、その北端に布積みの石垣が積まれ、その3m内側に空堀も穿たれ、防備が固められている。
二ノ壇、三ノ壇、帯郭を除く各郭は殆ど高低差がなく、低い石塁や浅い空堀、そして小段で仕切られた程度であり、相当に広い頂部で、また、二ノ壇、三ノ壇、帯郭も2m程の高低差で、全体的に鋭さに欠けるが、この城で特に印象に残るのは、ここから眺める鬼ノ城の雄大な姿で、鬼ノ城とセットで訪れると良い。


道 案 内
岡山道の岡山総社インターを下りて国道180号の西方向に入る。1.5km程西進した県立大学交差点で左手の総社・一宮バイパスに入り、さらに540m程西進した信号交差点で右折する。県道192号線に入り1.3km程北上し、県道271号線に突き当たり左折する。県道271号線を西に320m程行った十字路で右折し、道なりに1.8km程行くと「砂川公園」の西端で道が二手に分かれるので、右手へ進む。そのまま道なりに2km程上って行くと、道路左手に経山城の案内があり、ここが登山口である。登城口付近に駐車スペースがある。あとは道案内に従い15分も登れば城跡に至る。

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