備中 高松城  No33101−01 (たかまつじょう)       

本丸と堀跡 全景想定図

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 岡山市北区高松
築城年 : 室町時代
形  式 : 平城
遺  構 : 堀、捨石、水攻め築堤跡 
訪城日 : 平成22年3月21日

歴   史
高松城は、天文年間(1532〜55)の末頃から毛利氏と結び備中を支配した三村氏の旗頭であった石川左衛門尉久孝が天正年間(1573〜92)以前に築いたとされる。
天正3年(1575)毛利氏と三村氏との間で「備中兵乱」が起こり、三村氏譜代・石川氏の娘婿で重臣の立場にあった清水宗治は毛利氏に加担し、石川氏が主家三村氏とともに毛利氏に滅ぼされた後、備中半国を治める高松城主に付いた。
天正10年(1582)甲斐武田氏を滅ぼした織田信長は、西国の雄・毛利氏を制圧するため、羽柴秀吉を総大将として西進を本格化させる。同年1月下旬毛利氏の小早川隆景は、備前国境を守る7城(高松城、宮地山城、冠山城、加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城)の城主に守城を厳命したが、4月14日秀吉は高松城の北北東約3kmの龍王山に陣を築き、周辺の毛利方諸城を攻落し、4月27日には高松城を包囲、5月7日には堤防を築き、足守川の流れを引き入れ高松城の水攻めを開始した。
これに対し、5月21日吉川元春が高松城の西南西約2kmの岩崎山、小早川隆景が南南西約4.2kmの日差山に布陣し、毛利輝元が備中猿掛城に後詰めしたが、水攻めにより通路を断たれ高松城は孤立、輝元は安国寺恵瓊を秀吉のもとに遣し、講和の話し合いに入った。秀吉は領地割譲と清水宗治の切腹を求めたが、毛利氏は宗治の切腹は聞き入れられないとし、交渉は行き詰まった。
この間の6月2日に本能寺の変が起こり織田信長が斃れ、速やかな講和の必要に迫られた秀吉は再び恵瓊と会い、宗治の自刃を求めた。恵瓊は宗治を訪れ交渉の経過を話すと、宗治は講和のため一命を投げうち、後代に名を残すことは武士の本分と切腹を受け入れ、6月4日に「浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松のこけに残して」と辞世を詠じ自刃、高松城は開城した。
清水宗治の切腹を見とどけた秀吉は、城番に杉原七郎左衛門尉を配し、直ちに姫路城に駆け戻り、軍備を整え、姫路から摂津尼崎までのほぼ180kmを5日間で駆け戻り、天王山で明智光秀を打ち破った。これが世に言う“中国大返し”である。
その後、高松城は岡山城主宇喜多秀家の領する所となり、花房正成が居城し、城の大改修を行ってている。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後は、旧宇喜多氏の家臣で旗本となった花房職之が入城したが、別地に陣屋を構え高松城を廃城とした。

構造と感想
高松城は、備前との国境に近い賀陽デルタ地帯中央を南流する足守川の北1.5km程に位置し、河道の後背湿地帯の微高地となった自然堤防を利用し築かれている。
高松古城の図に城の周囲を沼と記しており、足守川や高梁川の河道跡の沼地が周囲を取り囲んでいたと考えられている。今では水田や住宅地に替わっているが、本丸部分を囲むように沼の名残の堀跡が残っている。
縄張りは、比高約1.8mから2.3mの土壇に本丸が、南東約50mに比高約1.0mの二の丸が、これらの北側から東側に堀を隔てて家中屋敷と射場があり、さらに射場の南端部が二の丸の南側に張出し三の丸であったとも云われる。
現在は城址公園として本丸、二の丸、三の丸の範囲が整備され、その西側や郭間に堀跡も見られるが、どの程度まで旧状を留めているか疑問もあるものの、本丸には清水宗治の辞世の句碑や首塚があり、水攻め案内図や資料館も造られており、歴史を楽しめる場所になっている。
城址公園から南東約900mの蛙が鼻に堤防跡の一部が残存し、高松城水攻め史跡公園として整備されている。当時に築堤された堤防は、延長約2.5km、基底巾約21m、上巾約10m、高さ約7mだったとされ、千原九右衛門勝則の指揮によって、わずか12日間で完成したと云われる。なお、高松城址から北西約1.5kmの足守駅下手にも堤防が残っているようである。

道 案 内
JR吉備線の備中高松駅から北へ700m程に位置し、国道180号沿いで備中高松駅の近くにある岡山市北区役所から南東に240m程行った高松稲荷交差点で左折し、県道241号線に入る。県道241号に入って50m程でJR吉備線を渡り、さらに道なりに470m程行ったT字路で左折する。西に370m程行き、突き当たりを右折した左手側が高松城址公園で城跡である。公園に無料駐車場が整備されている。

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水攻めの堤防跡    清水宗治の首塚 
因みに秀吉は、天正10年(1582)に最初の水攻めを備中高松城で、次いで天正13年(1585)に紀伊太田城で、天正18年(1590)に最後の武蔵忍城での水攻めを行っている。
 なお、近江国で永禄2年(1559)に守護・六角義賢が肥田城で大規模な水攻めを行っているが、豪雨で堤防に一部が決壊し失敗している。