越智城  No29401−01 (おうちじょう)       

居館地跡 西側丘陵上の南端堀切

城郭の概要                  
別  名 : 越智館
所在地 : 高市郡高取町越智字オヤシキ
築城年 : 南北朝時代
形  式 : 平山城
遺  構 : 土塁、堀切、堀、
訪城日 : 平成24年5月26日

歴   史
越智城は、南北朝時代に越智氏によって築かれた居館である。越智氏は、十市・箸尾・筒井氏と共に「大和四家」と呼ばれ、南北朝時代には南朝方として活躍した有力豪族である。
室町時代の永享元年(1429)に大乗院衆徒豊田中坊と一乗院衆徒井戸某との対立を旦緒に越智氏と筒井氏が争う「大和永享の乱」へと戦乱は拡大し、長期化する。永享6年(1434)筒井順覚兄弟が越智氏に討たれ筒井氏勢力は衰退し、越智党が奈良中雑務検断職(南都の警察権)を奪取して、豊田・福智堂・小泉の三人がその職に就いた。
しかし、幕府軍が筒井氏への援助を行ったことから、越智氏は箸尾氏らと反幕府体制を組織するが、永享7年(1435)多武峯の戦いに敗れ、越智一党は吉野へと逃れた。その後、永享11年(1439)惣領維通の弟・次郎が自決し、維通も討たれ、永享の乱は完全に終息した。
この戦いにより越智氏は惣領家が断絶、一族郎党の多くが討たれ被害は甚大であったが、維通の遺児・家栄が河内守護畠山氏支援を受け越智氏を再興、長禄3年(1459)には筒井順永と佐味城で戦い、筒井氏を圧倒するほど勢力を回復して越智氏の最盛期を迎えた。
越智氏は、その後も筒井氏と大和の覇権を争うが、天正8年(1580)織田信長による一国破城令により高取城と詰城の貝吹山城が破却され、天正11年(1583)には一族の内紛から家秀が殺され越智氏は滅亡した。

構造と感想
越智城は、東西に細長い越智谷の西端部に南に向かって開口する谷間に居館を設け、谷を取り巻く丘陵上に防御線を築いている。この城の東北東1.3kmにある貝吹山城は詰城とされる。
現在、谷間は畑になっているが、三段に削平されており、下の二段が面積も広く屋敷が建てられていたと考えられている。
谷を取り囲む丘陵では、西側の尾根に遺構らしきものが見られる。西側尾根の南端に堀切があり、続いて古墳と思われる土壇が点在し、また堀切となる。さらに堀切を隔て北側に二つの削平地が続き、北に張出す丘陵との鞍部が堀切状の窪地となっている。その北側にも三つの削平地があって、明確な堀切となる。そこから北東に延びる丘陵に二本の堀切が、北西に延びる丘陵に一本の堀切が入れられ、削平地らしき平坦地も認められる。
谷の北側から東側の丘陵上には、明確な遺構は認められないが、南端の裾に土塁が残っている。
西側丘陵の北部を除き、雑木林やブッシュがひどく、遺構確認は難しい状態である。

道 案 内
国道24号の橿原バイパスと大和高田バイパスが橿原市西端で交差する所から南へと県道35号線に入る。200m程南下して近鉄を越え、2.2km程南下した一町北交差点で左折する。まだ県道35号線で430m程東進して右折し、1.5km程南下した信号交差点を左折する。260m程東進したT字路で路地へ左折し、90m先で小川を渡って左折、その先40mの右手に越智公民館があり駐車する。この東の丘陵上が城跡である。

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西側丘陵上中間部の帯郭      西側家中屋敷地の土塁跡