谷城  No28442−01 (たにじょう)       

主郭北方向 南端の堀切

城郭の概要                  
別  名 : 永良城
所在地 : 神崎郡市川町谷字古城山
築城年 : 南北朝末期
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、竪堀、堀切、虎口、石垣、井戸
訪城日 : 平成26年4月13日

歴   史
谷城は、赤松則村(円心)の孫・三郎則綱が明徳年間(1390〜94)に永良庄の地頭職に任じられ、永良氏を名乗り、北方尾根続きの鶴居城(稲荷山城)とともに築いた。この城は、赤松氏領国播磨の北方を守る要地に位置することから「残要の城」と呼ばれ重きをなした。
嘉吉元年の「嘉吉の乱」で赤松宗家に味方し、永良氏は幕府軍の追討を受け敗れ、永良庄は山名氏が支配するところとなった。
応仁の乱の後、赤松政則が播磨守護職に復帰すると、赤松家庶流の広瀬近江守盛雅が谷城と稲荷山城の城主に任じられ、永良氏を称し、永禄3年(1560)に落城するまで永良庄一帯を支配した。
しかし、如何なる勢力が永良庄に侵攻し落城させたのか判然としないが、「赤松家播備作城記」、「播磨古城記」などの近世史料には別所氏の侵攻が記されている。
石組井戸跡            中央付近の竪堀

構造と感想
播磨平野を南流する市川流域にあり、一帯は中世永良庄と呼ばれ、城址の東方山麓に播磨と但馬を結ぶ街道が通じ、いまも播但自動車道が走る交通の要衝となっている。
城跡へは、南山麓に鎮座する八幡神社の左手から登山道が設けられており、容易に登ることができる。
構造は、丘陵から南に張出した標高206メートルの古城山山頂に主郭を置き、南北にのびる尾根筋に各二段の腰郭を築き、主郭西側には帯郭と犬走りを付帯させた連郭式山城である。丘陵続きとなる北端に三重堀切、尾先南端に二重堀切を設け厳重に城域を区画している。主郭は、南北約40m、東西約25mでよく削平され北面に土壇状の高まりが見られる。北腰郭の北面、南腰郭の南面に各々土塁が築かれている。北側の二段目腰郭の南東下方には水場があり、石組井戸が残っている。
城道は、犬走りの南寄りに取り付き、南側二段目の腰郭へ入り、主郭西下の帯郭を通り、主郭北西隅の虎口に通じている。
切岸は鋭く高く、上方から横矢を効かせた城道、深い何重もの堀切、井戸址などなど見所の多い城址である。

道 案 内
国道312号の市川町役場前交差点から西方向の県道215号線から404号線に入り、道なりに1.5km程北上して千原バス停を越えた小さな十字路で左折し細い道に入る。西に250m程行き播但線を超え、さらに180m程行った十字路で右折する。北に180m程行き左折し、道なりに240m程で八幡神社前に至る。神社に城跡の説明板が出ており、駐車もできる。

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