城山城  No28229−03 (きのやまじょう)       

主郭と石塁 中央ピーク西尾根の堀切

城郭の概要                  
別  名 : 亀の山城、木山城、
所在地 : たつの市新宮町馬立字亀の山
築城年 : 文和元年(1352)
形  式 : 山城
遺  構 : 空堀、石垣、
訪城日 : 平成26年4月12日

歴   史
城山城のある亀山には、天智2年(663)の白村江の戦いに敗れた大和朝廷が、唐・新羅の侵攻に備えて築いた古代山城があった。
そこに赤松円心が築いた本城の白旗城を守る外郭として、三男・則祐が家督を継いだ文和元年(1352)以後、10年の歳月をかけて城山城を築城、貞治元年(1362)には東麓の越部に守護屋形も建て、さらに応安3年(1370)には改修工事を実施するなどして整備した山城である。
しかし、嘉吉元年(1441)に播磨・美作・備前の守護であった満祐が将軍足利義教を暗殺する「嘉吉の乱」を起こし、播磨に帰ったが山名氏を中心とする討伐軍に領国支配の拠点であった書写坂本城を攻められ、要害であった城山城に移り籠城するも敗れ、多数の一族と共に自刃して果てた。ここに赤松氏宗家は滅び、赤松氏一族は衰退、播磨は山名持豊(宗全)の支配するとこととなり、城山城は放置された。
その後、長録元年(1457)の長録の変の功により満祐の弟義雅の孫政則が能登半国の守護に任じられ赤松氏を再興、さらに、応仁の乱(1467〜77)の間には東軍細川勝元の命によって播磨を攻め、旧領の奪還を果たした。
しかし、天文7年(1538)出雲の尼子晴久が播磨に侵攻すると、政村は置塩城を捨て淡路に逃れ、播磨の大半は尼子氏の支配するところとなり、この時、晴久が城山城を再興し、播磨支配の拠点とした。2年後の天文9年(1540)晴久は播磨から撤退し、再び城山城は廃城となった。
現在、山上に残る遺構の多くは、尼子氏時代に改修されたものとも云われる。発掘調査では、天目茶碗や備前焼、炭化米などが出土している。
現在、赤松一族らの供養塔が谷間の本丸跡や麓の集落に多数建てられ、さいれん坊主保存会によって盆供養やさいれん坊主が毎年8月14、15日に行われており、これがたつの市無形文化財に指定されている。

構造と感想
城山城は、龍野城の北方尾根続きに聳える標高458mの亀山山上に所在し、東麓の揖保川河谷に北西から美作街道が入って来る交通の要衝地を扼している。
遺構は、南北約550m、東西約250mの規模を有する巨大な山城で、比高が400mを越え、東側斜面は急峻で、天嶮に依拠する南北朝期の特徴を有している。
亀山頂部と南東側の二つのピーク一帯に多数の郭、堀切、土塁、横堀、石垣などの中世山城遺構が、そして西斜面には古代山城の石塁や「門の築石」と呼ばれる門礎等が遺存している。石塁の中には全長41m、高さ3mの規模を持つものがあり、また、「門の築石」は唐居敷と呼ばれる形式のもので、全国でここの他にもう一ヶ所あるだけの貴重な遺物だそうだ。
城山城は、古代山城の、そして、播磨屈指の中世山城の遺構が残る貴重な遺跡とされ、古代から中世の歴史ロマンが漂う城跡である。
この城は、亀山山頂より南東側の中央ピークの南東斜面、その下の谷地形、南東端ピークの南山腹に多数の削平地が設けられ、中心は谷間で小さな段差で削平地が連続している。南東端ピークの南山腹は平坦地の面積が広く、大きな礎石が整然と残っており、御殿風の建物が建てられていたのであろう。
しかし、両ピークは平坦ではあるが自然地形と思われ、後方防御が考慮されておらず、奈良時代の須恵器が採取されることから、古代の山岳寺院跡の可能性が指摘されている。
亀山山頂も平坦ではあるが自然地形と思われるが、尾根筋に堀切を穿ち、続けて北山腹に大規模な土塁と横堀を続けているが、これは山城らしい遺構である。
 
古代の門の築石           古代の石塁

道 案 内
城址への登山ルートは、大手道、兵糧道、水布弥、菖蒲谷、搦手谷などのコースがあるようだ。私は馬立地区にある大手道コースで訪城した。
国道179号を北上して船渡交差点で左折し、県道724号線に入り道なりに1.3km程行き道路左側に「城山城 大手」の案内標がある所を左折する。西に50m程先の突き当たりで左折し、道なりに山麓まで行く「山里公園」の駐車場に至る。登り口で馬立古墳群を通り抜け50分程で尾根に出る。そこから案内板に従い40分程尾根筋を歩くと城跡に至る。

 城跡   登り口    TOPへ  戻る


亀山西山腹の横堀


南東端ピークの南山腹の礎石列

現地掲示の縄張り図