龍野城  No28229−02 (たつのじょう)       

隅櫓 埋門

城郭の概要                  
別  名 : 霞城、朝霧城
所在地 : たつの市龍野町上霞城
築城年 : 寛文12年(1672)
形  式 : 平山城
遺  構 : 復元御殿、多聞櫓、模擬埋門、隅櫓、石垣
訪城日 : 平成21年6月21日

歴   史
明応8年(1499)塩屋城主・宇野政秀が赤松村秀の為に鶏籠山山頂に築城したとされ、初代城主・赤松村秀から4代78年間に亘り龍野赤松氏は続いた。天正5年(1577)赤松広英の時、織田信長の命を受けた羽柴秀吉の播磨進攻に対し、広英は戦わずして城を明け渡した。天正9年(1579)には蜂須賀正勝が入部し、その後も福島正則、木下勝俊、小出吉政、石川光元(代官)と秀吉配下の大名たちが在城したが、この間に鶏籠山上から南麓に城郭機能が移されたと考えられている。
なお、広英は天正13年(1585)但馬竹田城を与えられたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに際して西軍に属したものの西軍の敗戦後に東軍へ寝返り、鳥取城攻めに加わり戦功を挙げるも、城下に火を放った責めを問われ、鳥取の真教寺で自刃に追いやられている。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後に播磨に入封した池田輝政は、龍野には城代を置いた。その後、姫路城に本多忠政が入部し、元和3年(1617)龍野に二男・政朝を配置したが兄の死去により姫路城主に移り、引き続いて小笠原氏、岡部氏、京極氏が入部し、万治元年(1658)京極高知の丸亀移封の際に龍野城は破却され、以後の14年間は天領となった。
寛文12年(1672)になり信州飯田から脇坂安政が5万3千石で入部するが、1年余り商家を居館とし城の再建に取り組んだ。時代は既に大平の世でもあり、また、外様大名でもあったため、幕府の嫌忌に触れることを怖れ現在に残る御殿式の城に修復したとされる。脇坂氏は以後200年間龍野を治め、明治を迎えている。

構造と感想
 (御殿)
現在の雄姿は、昭和50年より5年間を費やし城壁、多聞櫓、埋門、石垣、本丸御殿、鍜坂門(しころざかもん)が再建され、後に隅櫓が建築されている。この再建は、古絵図を参考にすべて木造、土壁で建てられており、コンパクトではあるが古城の風情を感じられるよい雰囲気である。  

道 案 内
山陽自動車道龍野インターを下りて県道29号線を北に1.2km程行った富永交差点で左折し国道179号に入る。北西に690m程行った龍野橋西詰交差点で右折、北に340m程行った龍野旭橋交差点を左折する。西に350m程行って右折すると龍野城で、無料駐車場がある。

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