波賀城  No28227−01 (はがじょう)       

城址碑 主郭南西裾の石垣

城郭の概要                  
別  名 : 芳賀城、上野城(かみのじょう)
所在地 : 宍粟市波賀町上野
築城年 : 弘長年間(1261〜63)
形  式 : 山城
遺  構 : 石垣、土塁、堀切、復興木造二層櫓
訪城日 : 平成21年6月20日

歴   史
波賀城は、弘長年間(1261〜63)に伯可荘の有力者であった波賀七郎によって築かれたと伝わる。波賀氏は、土着土豪なのか、鎌倉幕府の地頭か、平安時代この地域が石清水八幡宮の荘園で伯可荘と呼ばれいた時の荘官から土着したのか不明である。鎌倉中期以降に武蔵国東秩父より入部した中村氏に領主の座を取って代わられているが、波賀氏の滅亡に関しては「名馬伝説」が伝えられている。
中村氏は武蔵七党丹党丹治氏の分れで、初代・光時から戦国時代末期の吉宗まで二十代にわたって波賀城主であったと云われ、波賀城を修理・拡張し、これを拠点に播磨守護赤松氏などの支配下で勢力を維持したものと考えられている。なお、天文期(1532〜55)には芳賀七郎左衛門光起が城主になり赤松与党として上月城合戦に参戦し討死、また、二代目城主・光宗も長水城合戦に参戦し自害して果てている。
天正8年(1580)羽柴秀吉によって播磨は平定され、この地は黒田官兵衛孝高に与えられ、領内の城割が命じられ、城主を失った波賀城は開城し破却されたようである。

構造と感想
波賀城は、因幡街道やそれと千種を結ぶ街道、三方に通じる街道を眼下に望む独立丘陵である城山(標高458m)の山頂に築かれている。
現在は波賀城史蹟公園として整備され石垣、土塀、石積み通路の復元や摸擬櫓が建てられており、山頂近くまで車で上り、10分程登れば城跡に行くことができる。
この史蹟公園は、平成2年3月に波賀町が「ふるさと創生資金を活用して、城跡整備のための城蹟整備専門委員会を設置、文献、古文書などの考古学的調査および地理的環境からみた波賀城史の調査研究を行う一方、城山の山頂部分を中心とする城郭遺構と山麓部の製鉄遺構の発掘調査を行って、平成6年までの約3年の歳月をかけて整備したものである。
社が祀られた山頂が主郭で、北西の腰郭に二層二階の木造摸擬櫓が建てられ、櫓からは眼下に広がる街並みを一望のもとに眺めることが出来る。櫓の周囲に積まれた石垣は、発掘調査等に基づき、もともとの石積みを復元したものとされる。この石垣は、三木合戦の二年間に積まれたと考えられている。
構造は、山頂の主郭の周囲に帯郭状の細い平段が二段ほど取り巻く輪郭式の小さな城砦で、切岸は石垣積みで、石垣の直ぐ下から中腹までは木々が切り払われ玉石で被っていたとされる。
規模は小さいが力なりに工夫を凝らして築かれた城で、近くまで車で行け、手軽に楽しめる城である。

道 案 内
(土塀と模擬櫓
中国自動車道山崎インターを下り国道29号を20分程北上した道の駅「みなみ波賀」から右手の山頂に建物が見える。道の駅から1..5km程行った「斉木口信号」のすぐ手前を右折する。案内標識がある。ここから案内標識に従って山道を上って行くと山頂近くの駐車場に至る。 駐車場から少し歩くと冠木門が見え、そこから10分程で城跡に登れる。
          

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