岩尾城  No28223−02 (いわおじょう)       

天守台と上の段 天守台と主郭の南面

城郭の概要                  
別  名 : 和田城、蛇山城
所在地 : 丹波市山南町和田
築城年 : 永正12〜13年(1515〜16)
形  式 : 山城
遺  構 : 天守台、土塁、石垣、空堀、竪堀、堀切、井戸
訪城日 : 平成25年3月22日

歴   史

永正12〜13年(1515〜16)和田日向守齋頼(3,750石)によって築かれた。
和田氏は、文明3年(1471)信濃より地頭として井原荘に入部した谷幹綱に始まり、孫・齋頼の時に和田氏を称したとされる。
齋頼は天文13年(1548)に病没し、その子作右衛門師李が跡を継いだが、天正7年(1579)丹波へ侵攻してきた明智光秀に攻められ落城、、師李は討死した。
天正14年(1586)近江国木戸村より十乗坊栄有が岩尾城主に封ぜられ、佐野下総守栄有と名乗った。栄有は岩尾城の中核部を総石垣造りの織豊系城郭へと改修したとされるが、文禄4年(1595)再び近江国へ転封となり、その後、五奉行の一人である前田玄以の属城となって、慶長元年(1596)に豊臣秀吉の命により廃城、破却となった。


構造と感想
岩尾城は、蛇山の山頂部にコンパクトな石垣造りの織豊系城郭部と、その周囲に広がる土づくりの中世城郭部が併存する城郭史上の貴重な遺構とされている。
和田小学校裏の説明板のある登城口から30分ほど登ると尾根筋に出る。右手へ尾根筋をたどると中世城郭部である南郭、下知殿郭、堀切と続く。堀底を通り山頂部の西斜面に回り込み、竪堀、井戸跡を経て、山頂部の西下に至る。そこからは石垣に沿うように岩だらけの道(石段跡?)を登ると織豊系城郭部である出丸、西の丸、本丸へと通じる。城道は、出丸南東面から西の丸の西面、南面の石垣裾を通り、本丸上の段の石垣にぶつかり右に折れて本丸の内枡形虎口に達している。本丸に入り右手、主郭中央に小規模ではあるが天守台と付櫓が構えられている。主郭は天守台の西側が本丸、北側が上の段、東側が下の段と三段になっており、主郭の南側には二ノ丸を付帯させ、北側は大土塁で北方の土づくりの古城部と区画している。古城部は大きく落ち込み広い長方形の郭と一段下がって土塁囲みの小さな二等辺三角形状の郭があり、その北側を堀切により分断している。
山頂部の斜面にそそり立つ石垣、天守台からの絶景を眺めて大満足した瞬間に、苦労して登って来た疲れを忘れさせてくれる城跡であった。

道 案 内

登山口は、和田小学校裏、親縁寺の西、和田交差点付近の稲荷神社からの三ヶ所があるようだ。
私は、和田小学校裏から登ったが、小学校の敷地を通らないと登山口にたどり着けないので、「休校日以外は学校に連絡せよ」と校門脇に掲示があり、連絡を入れ通らせてもらった。
和田小学校へは、国道175号を北上し西脇市から丹波市に入って150m程で佐治川を渡る。そこから600m程先の井原交差点で左手に進む。県道86号線に入り道なりに2,6km程行った和田大橋交差点で左折する。西に1..4km程の和田小学校西交差点で右折し100m程で和田小学校前へ着く。
岩尾城への登り口は、和田小学校の中を通り抜けた右寄りの裏手に出た説明板が設置されている所である。


城跡  登り口        TOPへ   戻る

 
現地の縄張り図

南端の堀切

井戸跡

古城から主郭を仰ぐ