黒井城  No28223−01 (くろいじょう)       

本丸からの眺望 本丸・二ノ丸間の空堀

城郭の概要                  
別  名 : 保月城、保築城
所在地 : 丹波市春日町黒井
築城年 : 建武年間(1334〜38)
形  式 : 山城
遺  構 : 石垣、土塁、空堀、堀切、虎口、
訪城日 : 平成21年6月20日

歴   史
黒井城は、建武2年(1335)赤松筑前守貞範(円心の次男)が新田義貞と戦った戦功で春日部荘と播磨の一部を与えられ、築城したたと云われる。その後、赤松氏は五代・約120年間に亘り城代を置きこの地を支配した。
しかし、応仁の乱の頃荻野氏がこの地を押領し、天文11年(1542)後屋城主赤井時家の次男・才丸が朝日城の荻野一族の盟主となり、これが丹波の赤鬼と称された荻野(赤井)悪右衛門直正である。天文23年(1554)直正は叔父の黒井城主荻野秋清を居館である留堀城で殺害し、黒井城主となった。その後、直正は次第に勢力を拡大し、黒井城も一大要塞に改修したとされる。
天正4年(1576)織田信長に丹波攻略を命ぜられた明智光秀に攻められるがこれを撃退している。しかし、天正6年(1578)直正は病死し、嫡子・正置(正義)が城主となるが、天正7年(1579)光秀に再び攻められ遂に落城した。
光秀は家臣の斉藤利三を城主するが、天正10年(1582)山崎合戦で羽柴秀吉に敗れると、代わって堀尾吉晴が城主として入部した。
天正13年(1585)堀尾吉晴は近江国佐和山へ転封となり、それに伴い廃城になったと考えられている。
なお、主要部を石垣などへ改修したのは、斉藤氏や堀尾氏の時代と見られている。また、徳川家光の乳母の春日の局となる斉藤利三の娘・福がこの城で生まれている。
 
城址碑          本丸虎口受け石垣

構造と感想
黒井城は、里屋敷跡とされる興禅寺の北背後に聳える標高356mの猪ノ口山の頂部に築かれている。猪ノ口山の山中には、黒井城の出丸や出城が多数築かれており、全山が一大要塞となっている。
黒井城は、頂部を小判形に削平し、西寄りに一番高く広い本丸を置き、東に空堀を隔てて二ノ丸、さらに角度をやや南にふって三の丸を階段状に連ね、その東と西側にそれぞれもう一郭を付帯させている。また、、南斜面と北斜面には帯郭をめぐらしている。
南麓から登城道を4、50分も登ると東郭に到達し、左手の尾根筋を向くと三の丸の高石垣が目の前に飛び込んでくる。さらに進むと今度は二ノ丸の腰巻のような石垣である。二ノ丸を西方に進むと空堀と本丸の石垣が見えてくる。空堀の南端から本丸虎口受けに入り、左に折れると本丸虎口の石段である。石段を上ると綺麗に削平された本丸に出る。本丸からの絶景は登城の疲れを忘れさせてくれる。そして、木々は無く下草も刈られよく整備されているのに感心させられる城跡である。

道 案 内
舞鶴若狭自動車道の春日インターを下りて春日インター前交差点を左折し国道175号線へ入る。西に1.3km程行った六反田交差点(黒井城の案内板有)を右折する。その先でJR福知山線を潜り360m程行って左折し、郵便局前を通り過ぎ、次のT字路を右折する。北にそのまま行き止まりまで駐車場がある。この先から登城路を登る。

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本丸虎口の石段    城址碑      三の丸の石垣