地黄陣屋  No27322−04 (じおうじんや)       

城址碑 大手門跡

城郭の概要                  
別  名 : 地黄城、丸山新城
所在地 : 豊能郡能勢町地黄904−1
築城年 : 慶長7年(1602)
形  式 : 陣屋
遺  構 : 石垣、堀、土塁、大手門跡、
訪城日 : 平成27年12月27日

歴   史
地黄陣屋は、能勢頼次より築城された。
能勢氏は,、清和源氏頼光流で、平安後期に多田(源)満仲の一族が能勢に入府して土豪化し、国基の代になって能勢郡を領有して、能勢氏を名乗り、西北の丸山城を本拠地としたとされる。
なお、能勢氏の祖を国基の4代前の能勢頼国とする説もある。
戦国騒乱は能勢氏にも及び、天正10年(1582)本能寺の変には明智方に加担、そのため秀吉配下の河原長右衛門宣勝らの乱入をうけて、丸山城はじめ城下は焼野原となった。
城主頼次は能勢を離散、以後領地は高山右近はじめ、数代を経て天正16年(1588)島津氏の管掌するところとなった。
能勢氏中興の祖といわれた能勢頼次は、関が原の合戦で東軍に組し、軍功により旧領・預地あわせて一万石余を宛がわれた。
頼次は領内の野間社(布留の宮)の再建をてはじめに、慶長7年(1602)に新しく「地黄城」と城下町の構築を計画し、普請奉行・山田彦右衛門の縄張りにより丸山城から石材や木材などを運んで、元和元年(1615)に完成したとされている。
近世初頭の陣屋城として偉容を輝かせたが、明治2年(1869)藩籍奉還となるや、旗本能勢氏(四千八石)も累代祖霊の見守るなか終焉を告げた。

構造と感想
地黄の東寄り、現在の能勢東中学校の西側に位置し、城内はテニスコートや体育館等の敷地として利用されている。
陣屋の規模・構造は、東西75m、南北110m、面積八千二百uの長方形で、西に大手門、裏には堀をめぐらし、四方には石垣を高く築き高塀が設けられ、城内には御殿・官宅をはじめ十数屋舎が配され、北隅には三層の楼閣が建てられた。
今も周囲の石垣や大手門の桝形、一部の堀が見事な姿を見せており、当時の威容を偲ぶに十分な遺構である。
  
大手門跡    南面の石垣    北西隅の虎口

道 案 内
京都縦貫道亀岡インターを下り、国道423号を能瀬方面に14km程来た妙見口交差点で右折し、府道4号線に入る。1.5km程先の野間トンネルを越える。更に府道4号線を道なりに3.3km程走ると野間中交差点に至る。ここを右折し、北に1.4km程道なりに行くと右手に能勢東中学校がある。テニスコートや体育館の敷地が城跡である。

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